「間の選択肢」 その@


「私ね、伊原君の事が前から大好きだったの」
 目の前で深沢(ふかざわ)さんがそう言った。美しく長い黒髪、小さくて白い手、そして僕をじっと見つめる大きな瞳。
「‥‥‥マジ?」
 僕はそう聞き返す。
「うん。でね、明日朝七時半に教室に来てほしいの。告白したいから」
「本気で言ってる?」
「うん、本気だよ。それじゃあ、私の事好きだったら、来てね」
 ずっと前から好きだった。いつか告白しようと思っていた。でも、勇気が出なくてなかなか決心がつかなかった。ところが、彼女の方から僕に告白をしてきた。信じられなかった。でも、目の前に彼女はちゃんといた。
 彼女はそれだけ言うと、恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いた。それでも、僕の様子を見ようと上目遣いでいる。この上なく、可愛らしいと僕は思った。
 天にも昇る思いだった。心の中で花火が上がる。つまらないネズミ花火などではない。黒い夜空を真っ白に染め上げる超特大のナイアガラだ。僕の心は七色に染められていく。勿論、幸福の色だ。
 まるで夢のようだった。こんな事が本当にあっていいのだろうか。僕は自分の頬をつねってみる。
「‥‥‥‥んっ?」
 痛くない。全く痛くない。僕は少し嫌な予感がした。
 いつのまにか、深沢さんは目の前からいなくなっていた。辺りを見渡してみる。辺りには何も無い、ただ白いだけの世界が広がっている。
 どうやら、本当にただの夢のようだ‥‥‥。
                ・
                ・
 「‥‥‥‥‥」 
 目が覚める。白いカーテンから微かに黄色い陽光が差し込んでいる。朝だ。完璧に朝だ。儚い夢から覚めると必ず見る、いつもの光景だ。
 眠気まなこで時計を見る。時間は午前七時だった。少し早い。あんな夢を見てしまったのだから、当然と言えば当然だった。しかし、実に勿体ないと思う。せめて、キスシーンくらい見せてほしかった。いくら何でも好きと言われて終わってしまうなんて‥‥。
 机に目をやる。学校に持っていくカバンと携帯電話、そして去年の修学旅行の時の班行動の時の写真が飾ってある。映っているのは僕と深沢さんだ。どこまでも広がる苺畑を背景にして、カメラに向かって二人してブイサインをしている。別に深い意味があったわけではなく、撮る時に偶然二人しかいなかったから、こうなっただけだった。
 いつから彼女の事が好きになったのか覚えていない。でも、この時にはもう、大好きだった。
 携帯電話を覗く。メールが一通届いている。寝ている時に来たのだろう。差出人を見てみる。その時、僕は自分の目を疑った。なんと、その深沢さんからだったのだ。急いでメールを見てみる。

 こんな夜遅くにごめんなさい。実は言いたい事があります。明日の朝七時半に教室で待ってます。        深沢めぐみ

 これは夢か幻か。試しに頬をつねってみる。結構痛い。どうやら現実のようだ。僕の頭の中に再び美しきナイアガラが咲き乱れた。僕は信じてもいない神様に両手を合わせる。神様、あれは正夢だったのですね、本当にありがとうございます!
 しかし、そういつまでも神に感謝してはいられなかった。今は七時五分。学校に行くのに約二十分はかかる。通常、一時間目は八時半から始まる。おそらく、今行っても誰もいないはずだ。だからこそ、深沢さんはその時間を選んだのだろう。
 僕は猛スピードで着替えをして、自分の部屋から飛び出した。
 下の居間では母が朝ご飯を作り、父が新聞を読んでいる。テレビが芸能人の離婚疑惑について語っている。いつもと変わらない、朝の風景だった。でも、僕だけはいつもとは違っていた。
「母さん、ちょっと急ぎの用があるから、ご飯いらない」
 僕は部屋を横切るとと同時ににそう言い、玄関に向かう。何かあるの? と母が顔を出した時、既に僕は玄関を出ていた。


 快晴だった。雲一つ無く、空は彼方まで蒼い。太陽が美しい光を街に降り注ぎ、鳥達が喜びの歌をさえずる。まるで自分の心のようだ。僕は浮き足立つ気持ちをスピードに変えて、学校に急いだ。
 学校に行くにはまず住宅街を抜ける必要がある。そして、踏み切りを通り、そこから川沿いにある長い土手を行く。そして、土手のたもとに僕の学校がある。普段はゆっくりとそれらの風景を眺めながら行くのだが、今日はそんなものには目もくれず、全速力で駆け抜けていく。自分でも信じられないくらい早かった。おおっ! 素晴らしき愛の力! と僕は誰かさんの詩の一節を口ずさみながら走り続けた。
 しかし、僕の足は止まってしまった。踏み切りである。この辺りは電車の往来が少ない為か殆ど閉まる事は無いのだが、いったん閉まると五分は開かなかった。僕やこの辺に住んでいる人達はこの踏み切りを「女達の電話」と呼んで恐れていた。(ひとたび始まると、なかなか終わらないから)
 しかも運悪く、僕がそこに辿り着いたとほぼ同時に、踏み切りは閉まってしまったのである。僕は止むを得なく止まった。しかし、微かな足踏みは止まらなかった。
 時間的に言えば、例えここで五分待ったとしても十分に間に合うはずである。しかし、僕は焦っていた。もしもどこか工事でもしていたら、回り道をしなくてはいらない。それで、何だかんだあって、もしかしたら間に合わないかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。出来る限り、余裕を持って行きたかった。
「‥‥‥‥」
 長い、長い、長い‥‥。五分とはこんなにも長いのだろうか。一時間は待ったような気がする。隣にいるサラリーマン風の男もしきりに時計を見ている。急いでいる人間にとってこの踏み切りは悪魔だ。
 数台の電車が通り過ぎ、ようやく踏み切りが開いた。僕は疾風如く踏み切りを抜けた。踏み切りを抜けると土手だ。ここからはほぼ一直線だ。信号も無い。工事もやっている気配は無い。人もそんなには多くないだ。時間は七時十七分。これなら絶対に間に合う、と確信した。
 が、しかし‥‥。
「‥‥‥イテッ! てめえ、何すんだよ」
 なんと、僕は向こうからやってきていた数人の不良グループの一人にぶつかってしまったのだ。こんな朝っぱらから何でお前らみたいな奴らがいるんだよ、と言いたかったが目の前にいるもんだから何も言えない。漫画に出てくるようなアイパー頭の不良は、走る僕の襟首をグイッと掴み、凄い形相で僕を睨んだ。
「ごめん、ちょっと急いでるんだ」
 僕は震える声でそう言ったが、それが悪かったのか男の額に太い血管が浮かび上がる。「何だとぉ? それが被害者に向かって言う言葉か?」
 男は僕の肩をがっしりと掴んだ。男の後ろには似たような格好の男達が数人いる。ガムをクチャクチャと音をたてて食べてる奴や、何の意味があるのか眉毛だけ綺麗に剃ってる奴とかで、喧嘩を仕掛けても、絶対に勝ち目は無さそうだった。


 僕は土手を下りて、川にかかっている橋の下に連れていかれた。不良達は僕の四方八方を取り囲んでいた。
「お金ならあげるから、今だけは勘弁してください!」
 結局、そう言うしかなかった。僕は喧嘩なんてやった事が無いし、護身術も習っていない。手っ取り早く事を治めるにはこれしかなかった。しかし、男達は僕の差し出した五千円札を払い落とした。
「そういう問題じゃねえ。誠意の問題だ。さぁ、謝れ」
 男は五千円札を拾って、僕のポケットに突っ込むとそう言い放った。最悪だ。何でこう厄介な事ばかり起きるんだ。僕はチラリと腕時計を見る。時間は七時二十五分。後、五分しかない。僕の頭の中で緊急会議が開かれる。
 せっせと謝る‥‥三分。
 韋駄天の如く走る‥‥二分。
 その後‥‥深沢さんと愛のバージンロードを歩く。
 五秒で閉廷となった会議の結論はこうだった。僕はプライドも何もかもかなぐり捨てて、その場に土下座した。土下座なんか幾らやっても無くならないのだ。しかし、深沢さんとの約束の時間は人生で一回こっきりだ。どちらを選ぶかなど明白だった。
「もっと、誠意を持ってやらんかい!」
 何度も頭を下げるが、なかなか男達は許してくれない。僕は男達の靴を舐める勢いで土下座を繰り返した。
 ようやく男達がその場から消えた時、既に時間は七時半になっていた。僕は立ち上がると、あらん限りの力を使って、学校へと急いだ。
 これなら何とか七時三十三分に着く。三分くらいの遅れは深沢さんも許してくれるだろう。どうかどうか、帰らないでください。心の中で何度もそう呟いた。


 誰もいない教室。それはそうだ。一時間目は八時半から始まるからだ。しかし、本来いるべき人もいない。深沢さんはいなかった。人っ子一人いなかった。
 僕はゆっくりとした足取りで教室に入る。閉まっている窓から、さっきと同じ陽の光が差し込んでいる。しかし、それは決して暖かいものではなかった。
 深沢さんの席を見る。一枚の紙切れが置いてある。僕はそれを力無く拾い上げた。

  貴方の返事が分かりました。ずっと友達でいましょう。      深沢めぐみ

 時間は七時三十五分。結局、三十三分にも間に合わなかった。たった五分くらいで、と思った。でも、彼女の事を恨む事は出来なかった。彼女は何一つ悪い事はしていないのだ。恨むべきはあの踏み切りと、あの不良グループだ。あいつらさえいなければこんな事にはならなかった。僕は奥歯を強く噛み締め、血が滲む程強く拳骨を作ると、誰の物かも分からない机を思いっきり叩いた。
「ちっくしょおぉ!」


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