「はばたけ! 蝶の羽よ!」  その@


 何故だかは分からない。でも、生まれた時から、私の背中には蝶々の羽が生えていた。お父さんもお母さんも普通の人間だ。でも、二人から生まれた私には、揚羽蝶の羽みたいな、黒くて青や黄色の点々のついた羽が生えていた。体はごく普通の女の子だった。なのに、どうしてこんなものを持って生まれたのか、全く分からなかった。
 生まれた時から、私は普通の人とは違う生活を強いられた。どこだか分からない研究室みたいな所で暮らした。テレビとベッドくらいしかない真っ白い部屋の中で、友達も無く、ただ本を読んだり、ぬいぐるみとお話をしたりしていた。
 私の周りにはいつも知らない人ばかりいた。誰も私に笑いかけようとはせず、皆冷たい視線で私を見つめ、そして次には必ず背中に生えてる羽を見た。私はそれが嫌だった。たまらなく嫌だった。私を一人の人間ではなく、物のように見つめるあの視線が大嫌いだった。
 一週間に一度、病院の手術室のような部屋に連れていかれて、裸にされて、検査を受けた。痛みを伴うような事は無かったけれど、大勢の人の前で裸になって、じろじろと見られるのは恥ずかしくてたまらなかった。体の色々な所に吸盤みたいな物をつけられ、特に羽には沢山の吸盤がつけられた。私はこれが何の為になるのか分からなかった。誰も教えてくれなかった。
 ベッドの上で小さくうずくまりながら、ただ黙って吸盤をつけられているだけの自分が、たまに嫌になった。
 何も出来ない自分が、無力な自分が、惨めに思えた。
 羽が生えている事以外、他は普通の人と何ら変わり無かった。ご飯も食べるし、トイレにも行くし、眠くもなる。
 それに恋もしたくなる。殆どの事は満たされているけれど、恋に関しては一度も叶った事が無い。私の周りには同年代の異性もいないし、第一、こんな私など誰も好きになってくれないだろう。本やテレビの中にある恋物語に焦がれるだけだった。
 鏡を見て、私は可愛いのかな、とたまに思う。よく分からない。私の周りにいる女の人は大人ばかりだし、同年代の同性も実際に見た事が無い。本は小説ばかりだから、分からない。
 どんな顔をすれば、男の人は私の事を好きになってくれるのだろう、と考えるけれど、考えれば考える程、虚しくなってくるので、最近はそう考える事もしなくなっていた。
 羽が生えている。その事が、私から全てを奪っていくような気がした。
 羽は自分の意志で動かす事が出来た。だから、本物の蝶みたいにヒラヒラとさせる事も出来た。でも、翔べなかった。私が成長すると、それと一緒に羽も大きくなっていったのに、いくら頑張っても翔べなかった。白い部屋で一人で歯を食いしばりながら翔ぶ練習もした。なのに、私の体は一ミリだって宙に浮かんではくれなかった。
 ここにいる事に反抗する事も出来ず、翔ぶ事すら出来ない。私は一体何の為に生きているのだろう、と毎日考えた。そして、答えが出た日は、一日も無かった。


 最初は私も他の子供と同じように学校に行ったり、外で遊んだりと、そんな事を強く願っていた。ずっと白い部屋に閉じこめられていたから、その思いは募っていくばかりだった。でも、時が経つにつれて、その思いも薄れてきた。
 私の背中には蝶の羽が生えている。だから、例えここから出たって誰も私に手を差し伸べてはくれない。皆、この部屋に来る人達みたいに冷たい視線を浴びせてくるだろう。ならば、ここにいる事はもしかしたら幸せな事なのかもしれない。ここなら、もうこれ以上傷つく事も無い。誰も助けてはくれないけれど、でも、苦しむ事も無い。
 そんな事を、十七年間、思い続けた。


 ある夜の事だった。検査を終えて部屋に戻った私は、純白のベッドの上に俯せになって倒れこんだ。今日の検査は一段と長かった。成長期だから検査が長くなってしまう、と一人の研究員が言っていた。白髪が目立ち始めた、初老の研究員だった。
 俯せになって瞳を閉じると、自然と睡魔がやってくる。
「‥‥」
 眠ると何もかも忘れられる。だから、私は眠るのが好きだ。その間だけ、何も考えずに済む。その時間だけ、私は全てから解放されるような気になれた。
 でも、その日は違った。私は眠れなかった。眠くなかったわけではない。眠る事が出来なかった。
 誰かが勝手に部屋に入ってきたのだ。
 その人は小さな足音を立てながら、ゆっくりと部屋に入ってきた。私はその足音を聞いて、小動物みたいにビクンと背中を突っ張らせ、上半身を起こし、ゆっくりと足音の近付く方を見た。こんな夜に、一体何をされるのだろう、と怯えながら見た。
 そこには、真っ白い服を着た男の人が立っていた。
「‥‥」
 一度も見た事の無い人だった。そして、その時初めて、私は自分と同年代の男の人を見た。私の黒い髪の毛と違って、この人の髪の毛は茶色だった。少し痩せているように見えるが、筋肉がありそうにも見えた。
 彼は周りを気にしながら部屋に入ってきた。私が怯えた様子で何か言おうとして口を開けると、彼は自分の口元に指を当て、しーっ、と言う。その仕草がどこか子供っぽかった。私は恐い反面、何だか彼に従う事は間違いではなさそうな気がして、彼の言うまま、一言も喋らなかった。
「君を助ける為に来たんだ」
 彼は私の目の前まで来ると、小さな声でそう言った。私を一直線に見つめていた。
「今、この研究室には誰もいない。僕と君しかいない。さあ、ここから逃げ出そう」
 そう言って、彼はにっこりと笑った。生まれて初めてだった。人の笑顔を見たのは。
 彼は私の手を強く握った。そして、そのままぐいっと引っ張る。私はベッドから起き上がり、床に足をつけた。床はひんやりと冷たかった。私の体はとても熱かった。
「‥‥あなた、誰なんです?」
 手を引く彼の背中に向かって、そう訊ねた。生まれて初めて、私の手を強く握ってくれた男の人。でも、私はこの人の事を知らない。だから、私はこの人の事を知りたかった。
 彼は一度立ち止まり、私の方を向いて、そして笑って答えた。
「幼なじみってやつ」


 次の日「「「「「(倉田と吉本)
「きょきょきょきょ局長! 彼女がいません。どこにもいません!」
 研究室内の最初の一言はそれだった。
「何だとぉ! よく探したのか?」
「はい。夜は彼女の部屋には鍵がかかっていて、彼女が開けられるはずがありません。きっと誰かが鍵を外して、彼女を外に出したんですよ!」
「うぬぬぬ。誰かそいつに心当たりはないのかぁ!?」
 そう怒鳴り散らすのは研究室局長、倉田正治(くらた まさはる)。ごつい顔にごつい手、何もかもが岩石のようにごつい。歳は四十を過ぎた程度に見える。そして、すぐに怒鳴る事から「スピーカー」のあだ名で呼ばれている男である。
 倉田ら、研究員達はも抜けの殻になった部屋の中にいた。その数はざっと見渡しても二十人はいるだろう。皆、慌てふためいている様子で、がやがやと騒めきが絶えない。倉田の言葉で、その騒めきはより大きくなった。
「心当たりのある奴はいないのかって聞いてるんだよ?」
 倉田はもう一度同じ事を聞くが、返事は一向に返ってこない。倉田は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「今すぐ探しに行くぞ! あいつはうちの大事な大事な宝物だ。絶対に取り返せ!ここの研究員総出だ。分かったな! 分かったら今すぐ行けぇ!」
 噴火した火山から逃げる住人のように、研究員達は急いでその場から去った。残ったのは倉田と彼の忠実なる部下、吉本(よしもと)だけである。吉本は倉田とは正反対で、常に冷静沈着な男である。漆黒の髪の毛は綺麗に五分けにされていて、かけられた眼鏡がそんな彼を一層冷たく見せていた。まだ二十代に見える艶のある白い肌は、その冷たそうな眼鏡にぴったりだった。
「局長。我々もすぐに行きましょう」
 吉本は眼鏡を人差し指でクイッと持ち上げると、倉田に向かってそう言った。
「分かっとる。車の運転はお前だぞ」
「分かってます。局長、早く免許取ってください」


 同時刻、研究所前「「「「(茜と久美)
 空は一面の青空である。鳥の鳴き声が遠くまで響き、澄んだ空気を耳でも教えてくれている。
 婦人警官、森本茜(もりもと あかね)と山本久美(やまもと くみ)は、胸いっぱいに空気を吸い込みながらノビをした。
「うーん、いい空気。都会の外れってだけなのに、何でこんなに空気が美味しいのかしら」
「まったくだわ。こんな日はパトロールなんかやってらんないわよね」
 ミニパトカーの両サイドにたたずみ、二人は帽子をとった。紺色の制服が、太陽の光を浴びて水色に見える。茜の赤茶色の髪の毛と、久美の黒い髪の毛が流れる風にのってふんわりと浮いた。二人共スタイルも良く、美人だった。茜は大きめの胸、久美は可愛らしい瞳が目立っていた。
「あそこの何やってるか分かんない研究所さえ無けりゃ、見通しは最高なんだけどね」
 茜は髪の毛を押さえながら、目の前にある研究所を眺めた。四方を鉄柵に覆われた仰々しい研究所。その周りは何の手入れもされていない草原があり、その遥か向こうに最近作られた高速道路が走っている。茜の背中にはビルが絨毯のように敷かれた都会がある。
「ねえ、茜。ここで一眠りしてから戻らない?」
 久美は胸ポケットから煙草を取り出しながら言う。
「いいわね。別に一時間くらいサボってもバレないでしょ。決まり。ここで一眠りしてから戻る事にしましょう」
 そう言って、茜はパトカーのドアを開けようとする。そんな時だった。
「んっ?」
 茜の視界の隅に数台の車が見えた。茜が視線を戻すと、そこには研究所から飛び出す無数の車の姿があった。
「久美。研究所からたくさんの車が出てくるわよ。何かあったのかしら? もしかして、核爆発とか?」
「んなわけないでしょう。でも、様子がおかしい事は確かね」
 久美の視界にも車が映った。車は明らかに速度を上げて、研究所から四方に散らばっていく。その内の一台が、パトカーの横を猛スピードで駆け抜けた。その時出来た突風で、二人のスカートがめくれる。
「きゃぁ。一体何なのよ!?」
 そう言い終えた時には、既に車は遥か遠くで点になっていた。
「久美、これは絶対何かあったんだわ。追っかけて理由を聞き出すわよ」
 顔を赤くして憤慨する茜に、久美は強く頷く。
「そうね。でも、車はちりぢりになっちゃったから、どの車を追おうかしら?」
「あっ、いかにもボスが乗ってるって感じの車が出てきたわよ。あれを追いましょう」
 茜の目に飛び込んできた青い車。その車には倉田と吉本が乗っていた。
「分かったわ。茜、飛ばすからシートベルトつけてね」
「あいよ!」
 そう言うと同時に、二人はパトカーに乗り込んだ。久美は素早くエンジンをかけると、ギアをドライブにして、一気にアクセルを踏み込んだ。玩具の車のように車は凄まじい摩擦音と共に発進した。
 二人を乗せたパトカーは、都会の方向へ走っていく青い車の後を追いかけていった。


 倉田が研究所を出てから一時間後「「「「
 私は彼の家に連れていかれた。彼は一人暮らしをしていて、家には誰もいなかった。
 その途中、私は生まれて初めて外の世界を見た。全てが新鮮で、全て色鮮やかに私の目に映った。文字とブラウン管の中でしか見る事のなかった世界が、今目の前にあった。
「逃げおおせたら好きなだけこの世界が見れるんだ。今は走って」
真夜中、彼と二人きりで人気の無い都会を走っている時、彼は私に向かってそう言った。
私が強く頷くと、彼はまた笑ってくれた。
 一緒に走っていると言うよりは、私が無理矢理引っ張られている、という感じで私と彼は街中を走った。星は出ていないが、黄色い月がぽっかりと紺色の空に浮かんでいた。
 研究所の中で初めて彼と会った時、彼は幼なじみだと言った。しかし、私はその時初めて彼に会った。私に幼なじみの男の人なんていないはずだ。だから、彼は嘘を言っているのだと思った。でも、だったら何故彼は嘘をついたのだろう? 実はこれも何かの実験なのだろうか? でも、今まで一度だって外には出してもらえなかった。それがこんなに簡単に外に出してもらえるのだろうか? 
「‥‥‥‥」
 いくら考えても分からなかった。でも、研究室の中で見たあの人の顔。あの真剣な顔を、私は信じたかった。
 研究所を出てから、私と彼はずっと走り続けた。どのくらい走ったかは分からない。気がつくと、綺麗な朝日が遠くの景色から顔を覗かせていた。日の光を浴びながらも、私と彼は走り続け、空の色が変わる頃、彼の家に着いた。
 彼の部屋は殺風景だった。小さな居間にはテレビくらいしか置いてなく、台所も使われた様子があまり無い。自分の部屋と似ていると思った。彼は冷蔵庫から飲み物を取り出して、私に渡してくれた。オレンジ色をした飲み物だった。
「それはオレンジジュースって言うんだ。まあ、ミカン味の飲み物だよ。それ飲んで、少し休憩しよう」
 彼はそう言って、居間の真ん中に腰掛けた。私は彼の隣に座り、その飲み物を一口飲んだ。甘酸っぱくて、とても美味しかった。彼が興味ありげに私を見つめている。私は美味しい、と答えた。
「良かった。口に合わないんじゃないかと思って、ドキドキしてたんだ」
 彼はそう言うと居間の真ん中にあるテーブルの上に置いてあった煙草に手をのばした。
「それ、煙草でしょ?」
「そうだよ。よく知ってるね」
「うん。あそこの人達が吸ってるところを見た事があったから」
 彼は煙草に火をつけ、勢い良く煙を吐いた。臭ぎ慣れない匂いが漂った。
「確か、二十歳にならないと吸っちゃいけないんだよね?」
 オレンジジュースをもう一口飲みながら言う。彼は笑って、
「俺、悪い奴だからさ」
 と言った。
 それからしばらく、私はオレンジジュースを、彼は煙草を手にしたまま黙った。足が少し痛かった。でも、それは苦にならなかった。ここにいる。あそこを出てここにいる。それがこの上無く嬉しくて、疲れなど全く無かった。例えこれが何かの検査だったとしても、それでもよかった。
「よし。ここにも奴らが来る可能性がある。別の街に行こう」
 彼はゆっくりと立ち上がり、言った。
「また、走るの?」
「ここからは車だ。本当は車もまだ乗っちゃいけない年齢なんだけど、非常事態だから許してくれよな?」
 彼は私の唇に人差し指を軽くつけて、ウインクをした。
「そう言えば、自己紹介がまだだったね。俺は柏木光一(かしわぎ こういち)。君のいた研究所で働いているとある研究員の息子さ」
「‥‥研究員」
 その言葉を聞いて、私は背筋が凍り付くような錯覚を覚えた。走っていた時に考えてた嫌な予感が、頭の中で渦巻いた。
 勝手に肩が震えだす。失望で、目の前がクラクラと歪んでいくのが分かった。しかし、彼はそんな私の肩を両手で強く掴んだ。そして、目の前に顔をもってきて、あの時の、研究所で助ける為に来た、と言った時と同じ顔をして、強い口調で言った。
「大丈夫。絶対に君を傷つけたりはしない。約束する。僕は君の事が好きなんだ。そんな事はしないよ」
「‥‥‥好き?」
 私は思わず聞き返してしまった。彼は私から少し顔を離し、私から視線を反らした。頬が僅かに赤くなっているのが分かった。
「そうさ。僕は小さい頃から親父に研究所に連れていってもらっていた。だから、君の事はずっと前から知ってるんだ。今までずっと、監視カメラの向こうからしか君を見る事が出来なかった。でも、時が経つにつれて、そんな君が可哀相に思えて、そしてそんな君が好きになったんだ。嘘じゃないよ。嘘で、こんな危険な事は出来ない」
 彼、光一はそこまで言うと、頬をかいて、はにかんだ。
 私は人から好きだと言われた事など一度も無かった。だから、こんなはっきりと好きだと言われて、どう答えていいのか分からなかった。体の奥底からじわりと熱いものが込み上げてきて、口を開けても言葉が出なかった。
 でも、俯いて何を言おうか迷っていると、不意に背中の羽が目に映った。羽は静かに上下に揺れていた。
「でも、私‥‥背中に羽が‥‥」
「言っただろ?」
 生えているのよ、と言おうとしたその口を、光一の言葉が遮った。
「今までずっと見ていたって。そんな事、どうでもいいよ。君は君」
 高らかに光一は笑うと、私の手を取った。


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