「はばたけ! 蝶の羽よ!」 そのA
「当てはある。車で半日くらい行った所に親父の別荘がある。親父は君の味方だから心配無いよ。研究員の奴らは誰もそこを知らない。そこまで行けば、もう追っ手は来ない」
「その後は?」
「決めてない。逃げ切ってから考えればいい」
車を走らせながら、光一は言う。私の方はあまり見ていない。周りをキョロキョロと見渡して、追っ手が来ているかどうか見ている。
空は綺麗な青空だ。矢のように過ぎていく外の景色は、どんな光景でも新鮮だ。具体的にここがどこなのかは分からない。でも、不安は無かった。光一に全てを任せていればいい、と素直に思った。
ここは住宅街なのだろう、人の姿は殆ど見かけない。たまに見るが、その顔を確認しようとする頃には、既に車は人の前を通り過ぎてしまっていた。それほど、車はスピードを上げていた。
私は研究所からずっとパジャマのような服を着ていた。光一はそれだと変に思われる、と言って服を一式用意してくれていた。簡単なTシャツとジーパンだった。Tシャツは背中に二本の切れ目が入っていた。羽を通す為の切れ目だった。
居間で着替えている間、彼は台所で待っていてくれた。私はひどく緊張しながら着替えを済ませた。着替えを済ませて台所に戻ると、彼も着替えを終えていた。白衣から、黒いYシャツと紺色のジーパンという姿だった。ジーパンは同じものだった。
「君は何の心配もしなくていい。絶対に離しはしないから」
車の運転席からチラリとだけ私を見た光一の顔は、とても晴れやかだ。そして、それを見つめる私は体全体が沸騰するくらいにあったかかった。
その時だった。後ろから物凄いスピードで青い車がやってきた。光一はバックミラーを何度も見ながら舌打ちをする。
「くそっ、さっそくきやがったな。でも、どうして分かったんだ?」
光一と私を乗せた車は明らかに先程よりもスピードを上げ、住宅街の縫い目を突っ走っていく。それに合わせて、後ろの青い車もスピードを上げた。そして、あっという間に私達の車の真後ろに付く。
後ろの車から見慣れた男の人が顔を出した。一度見たら忘れられないあの顔、倉田だった。そして、倉田はとてつもなく大きな声で叫んだ。まるでスピーカー越しに話しているかのようだった。
「逃げようとしても無駄だ! その女の体には発信機が埋め込まれている! どこまで行っても追いかけるぞ!」
それを聞いて、私は慌てて体全体をまさぐる。しかし、倉田の言っていた発信機はどこにも無かった。
「埋め込まれてるって言ってるから、体の中にあるんだろう。えげつない事する奴らめ!」
光一は少し悔しそうな口調でそう吐き捨てる。
倉田は目を凝らして、私達の車を覗き込んでいる。そして、何かに気づいたように目を丸くする。
「お前、柏木の息子だな? 柏木ぃ! こんな事してただで済むと思ってんのか!?」
「思ってねえから逃げてんだよ! ばーか!」
光一も窓を開けて、後ろの車に向かって叫ぶ。その言葉を聞いて、倉田は顔を真っ赤にする。
「てめえ! 絶対に捕まえてやる!」
その言葉と共に、後ろの車が私達の車に追突する。その衝撃で、私と光一は体を大きく揺らす。しかし、大した被害は無いらしく、車はそのままのスピードで滑走していた。
「しっかりつかまってろ!」
光一は力強くそう言う。私も力強く頷いて、足をふんばる。その瞬間、車が凄まじい音を立てて九十度曲がり、狭い路地に入っていく。ギギギッという、何かが強く擦れるような音がした。
路地は車一台通れるのがやっとの狭い道だった。その為、両側のサイドミラーが壁に擦れて、外れてしまう。それでも、車は決して止まらない。
路地隅に置いてあった水色のゴミバケツがぶつかり、中身が目の前のガラスに叩きつけられる。それでも、車のスピードは落ちず、走り続ける。そのスピードで、ガラスに張り付いていたゴミが後方に流れていった。
後ろを見ると、倉田の乗せた車も追ってくる。しかし、急に路地に入ったのと、飛んできたゴミに驚いたのだろう、さっきよりも少し距離が離れている。
路地を抜けて、再び大きな道に出る。車は再び直角に回転し、道筋に沿って走る。道の両端には沢山の人がいる。ここは商店街のようだった。親子連れやサラリーマンらしい人々が皆、凄い顔でこちらを見ている。猛スピードの車に驚いているのか、それとも私を見て驚いているのか、よく分からなかった。
無数の人の視線を尻目に、車は更にスピードを上げて走る。倉田を乗せた車も、負けじとスピードを上げてくる。再びぶつかりそうになるが、それを素早く察知していたらしい光一は、ハンドルを右に切り、攻撃を上手にかわした。
逃げ惑う人々を尻目に、私の車と倉田の車は触れるか触れないか辺りの微妙な位置のまま八十キロ近いスピードで商店街を抜けていく。頭一つ分だけ、私の車の方が前に出ているが、すぐに追い付かれてしまう距離だった。店の看板も蜃気楼のようにしか見えない。
「‥‥あっ」
前を見ると両側の店が無くなってきているのに気づいた。やがて次第に人影が減り、道が大きくなる。昔、街の写真を研究所の中で見た事があった。これは高速道路に続く道なのだ。
青い車はまだ追ってきている。サイドミラーから見える倉田の顔は、さっきよりもより赤くなっている。あんなに赤い顔は今まで一度だって見た事が無かった。
そして、倉田の車の後ろに更にもう二台、車がある事に気づいた。その二台も、こちらの車を追っているように見える。
「ねえ、車の数が増えてるよ」
「倉田の仲間の可能性が高い。でも心配するな。俺に任せておけ」
光一は焦った顔を隠すかのように、少し恐いくらいに笑顔になる。絶対の自信があるように思えた。その証明のように車は迷う様子も無く、高速道路へと走っていく。
私は高速道路に入ったらもっとスピードが上がるだろうと、思い、更に力強く足をふんばった。その時にはもう、これは実験や検査ではないと確信していた。
だから、光一の言った事は嘘じゃない。私を好きだと言った言葉も真実なのだ。私はそんな彼と一緒にいたかった。彼が好きなのか、それは分からない。でも、好きだと言ってくれた人には、ついていきたい。
私は彼の肩に手を置いた。強く掴み、離さなかった。彼はそんな私を見て、はははっ、と高らかに笑った。
「嬉しいね、頼ってもらって。男冥利に尽きるってもんだ!」
「吉本! あいつ、高速道路に向かってるぞ。分かってるのか?」
倉田は助手席で何度も地団駄を踏みながら、ハンドルを握っている吉本に怒鳴りたてる。
しかし、吉本の顔は相変わらず冷静そのものだ。
「分かってます。それよりも局長、後ろから見知らぬ車が二台やってきてます。一台はパトカーのようです」
「何だと?」
倉田が後ろを向こうとした時、パトカーが倉田の乗った車のすぐに隣についた。パトカーから茜が顔を出す。吹き抜けていく風で、茜の赤茶色の髪の毛が乱暴に揺れた。
「そこのダルマ顔ぉ! お前、そんなにとばして交通法違反だぞぉ! 大人しくお縄につけぇい!」
ダルマと聞いて、倉田が本物のダルマのように顔を腫らす。
「黙れえぇ! 女! 俺は今忙しいんだ! 罰金なら後でたんまり払ってやるから、とっとと失せろ!」
「むかっ! 失せろって言われてほいほい失せる程、私は出来た女じゃないのよ。どんな理由か知らないけど、絶対に逮捕してやる! 久美、絶対に引き離されないでね」
「分かってるわよ」
火に油を注ぎ合いながら、二台の車は並走して高速道路へと続く道を駆け抜けていく。道はどんどん大きくなり、車二台程度は余裕で並走できた。しかし、途中に無数の車があり、二台の車は蛇行を繰り返す。その間に、もう一台の車が反対車線から二台を一気に追い抜いた。
「‥‥やるな。乗っているのは‥‥柏木か!」
吉本は走り抜けていく車の運転席に乗っていた男の横顔を見て、小さく舌打ちをする。
再び車線に戻ったその車は、器用に他の車を追い抜き、光一達の乗っている車に近付いていった。
「光一! 大丈夫か?」
高速道路の料金所が見え始めた頃、二台を抜いた車は、光一達の乗っている車の真横についていた。
「親父! 来てくれたのか!」
光一は前を気にしながらも、真横の車に乗っている男に声をかける。少し白髪の目立つ初老の男が、そこにはいた。
「大事な一人息子の晴舞台を見学しに来たんだよ。前の料金所は一番左が故障している。そこを通れ!」
そう言って、男は親指を立てて、息子に合図をした。それに光一も応える。
「それもちゃんと計算済みだよ。親父は倉田の車を妨害してくれ!」
「任せろや。ただし、初孫の名前は俺がつけるからな!」
そこまで言うと男の車は、真横から真後ろについた。しかし、ぶつかる気配は無い。
「あれは俺の親父だ。初孫の話は忘れてくれ! よし、料金所を抜けるぞ」
きょとんとした表情で光一を見ている私を尻目に、光一はアクセルをめいっぱい踏み込んだ。車は他の車が止まって見える程加速して、料金所に向かった。
「吉本! やつら、料金所を抜けたぞ。しかも金を払ってない!」
「この情況で金を払ったらバカですよ。それより、あの車の位置、間違いなく私達の車の進路を妨害しようとしてますよ」
吉本は柏木父の乗っている車を指差して言う。
「おそらく、料金所の所で止まる気ですね」
「どうするんだ? 他の料金所には普通の車が並んでるぞ」
「局長、私の趣味、知ってます?」
「趣味?」
「私はね、007の大ファンなんですよ」
「‥‥だから?」
少し不安そうな倉田の問いに、吉本は答えなかった。
吉本の予想通り、柏木父の乗った車は料金所の所で止まった。料金所は車一台通るのがやっとの幅だ。他の料金所には普通の車が列をなしている。どこにも通り抜ける場所など無いのに、倉田達の車は猛スピードで突っ込んでいく。柏木父の乗った車が眼前に迫っていた。
「ひえええっ! 死ぬなら女と一緒がいい!」
倉田が絶叫する。それでも、吉本はスピードを弱めない。
「舌を噛みますよ! 歯を食いしばってください!」
吉本がそう言った瞬間、二人を乗せた車が宙に浮いた。そして、柏木父の車の上を飛んで、高速道路に着地した。しかもスピードは全く落ちていない。激しくバウンドしながらも、車は排気ガスをボウボウ吐き出して走り続けた。
「そんなのありか?」
青い車の排気ガスに包まれながら、柏木父が口をあんぐりと開ける。その時、柏木父の車が激しく揺れ、前に押し出された。
後ろからパトカーが突っ込んでいた。
「うおおおぉ!」
パトカーが柏木父の車をぐいぐいと押し、高速道路へと押し出す。そして、車一台が通れる程のスペースが出来ると、パトカーは僅かに後ろにバックし、次の瞬間に柏木父の車をするりとかわし、高速道路へ出た。
「おっさん、邪魔! 私達は今、凶悪殺人犯を追ってる最中なの! 修理代は署に請求してね 」
修理代の後は、柏木父には聞こえなかった。その時車は既に、点になっていた。
「‥‥いつから倉田は殺人犯になったんだ?」
そう言いながら、柏木父はアタッシュケースにしまってあった煙草に手をのばした。車のトランクはグシャグシャになっていて、後輪が外れていた。
高速道路は普通の道と違って障害物が無い。他の車を交わすのも比較的簡単だ。私と光一を乗せた車は百二十キロのスピードで灰色の道を疾走していた。後ろを見てみても、青い車は点にしか見えない。
「まだ追ってくるよ」
「なんちゅう車だ。親父の妨害をあんな方法でかわすとは。敵ながらあっぱれ」
光一は少し笑いながら言う。まだ余裕がある様子だ。私は小さくため息をついて、椅子の背もたれに背を預けた。
「ねえ、そんな背もたれに背中をつけて羽は痛くないの?」
光一が私の方を見ながら訊ねる。
「ちょっと痛いけど大丈夫」
「寝る時ってどうやって寝るんだ? もしかして、ずっと俯せ?」
「ううん。私の羽って器用に折り畳めるの。鳥の羽みたいに。だから、仰向けに寝ても大丈夫」
「そうか‥‥大丈夫なのか。そりゃ良かった」
光一は頬を指でポリポリとかきながら、苦笑いをした。私には、その意味がよく分からなかった。
「何でそんな事聞くの?」
「えっ? いや、ただ気になっただけだよ」
光一は無理矢理派手に笑って、言葉を濁した。その意味も私には分からなかった。
その時だった。後ろからヒューという音がして、次の瞬間には私の左隣の道路に黄色い閃光が走った。そして、けたたましい音が鳴り響き、黒やオレンジ色の煙が沸き上がった。それは爆発だった。
「今度は何だ?」
光一はハンドルを右に切りながら、バックミラーを見る。私もつられるように見た。そこにはオレンジ色の玉が凄い速さで迫っていた。そして再び、今度は車の後ろで激しい爆発が起こった。車は爆発から逃げるように右へ左へ移動した。
「何なの?」
爆発が起きる度に、首をその方向へ向けながら、私は光一に訊ねた。
「倉田の野郎がバズーカでも撃ってんだろう? あいつら、何の研究員なんだ?」