「幸福を呼ぶシキちゃん」その@


 電車が夜の都会を走る。車内には会社から帰るサラリーマンやら、塾帰りの子供などでごった返している。その中で、間宮潤(まみや じゅん)はイスに腰掛け、流れていく窓の風景を見つめていた。
 しかし、ふと思い立ったようにカバンの中に手を入れ、1冊の本を取り出した。
「何の本や?」
 隣にいる女性が顔を覗き込む。ボブカットのヘアースタイルと眼鏡が特徴的な女性だ。
「座敷童(ざしきわらし)の本ですよ。工藤先輩が読めって言ってたんじゃないですか」
 言われ、工藤千恵子(くどう ちえこ)はポンと手を叩いた。
「ああっ、そうやった。ウチな、妹がおるんやけど、そいつが参考になる言うてるんや。ひょっとしたら、潤がよく見る人影っちゅうのは座敷童かもしれへん」
 工藤先輩は流暢な関西弁で言う。
「どうなんですねぇ‥‥」
 潤は半信半疑で答える。彼が手にした本。それは座敷童に関する本だった。
 潤は大学で心霊現象研究会というサークルに所属している。略して心霊会。工藤千恵子とはそこで出会った仲だ。
 潤は心霊現象などまったく信じなかった。が、都内の大学に通う為に上京してきてから、奇妙な出来事が起こり始めた。家の近くの電信柱の影で不気味な人影を見たり、夜な夜な俺を呼ぶような女の声を聞いたり‥‥。
 あまりにも摩訶不思議な現象が多発するので、彼は心霊会に入る事にした。
 しかし、色々と調べたが参考になるような事は手に入らなかった。そこで、工藤先輩に相談した所、彼女はその本を貸したのだった。
「座敷童じゃなくて背後霊とかやったら死ぬらしい」
「‥‥死ぬんスか? 俺」
「なははっ、軽いジョークや。でもまあ、その本読んだら何か分かるかもしれへんで」
 工藤先輩はジョーク好きだが、真剣になるとちゃんとした事を言う。潤はそんな彼女の性格が好きだった。もっとも彼女には彼氏がいるらしいので、変な気を起こした事は無かったが。
 しかし、その彼氏というのを誰も見た事が無い。本人だけがその存在を語っている。その彼氏こそ幽霊だという噂があるが、恐くて誰も聞いた事は無かった。勿論、それは潤もだった。
 電車がいくつかの駅を通り過ぎ、潤の家の最寄り駅に止まる。結局本を読む時間は無かった。
「んじゃ、俺はここで」
「おうおう。んじゃ、また明日大学でな」
「ういっス」
 潤は電車から降りた。
 その時だった。どこからか視線を感じた。粘り着くような、熱い視線。潤はバッと振り向く。工藤先輩が不思議そうな目で潤を見ている。彼女以外にこちらを見ている人はいない。チラリと目の合う者はいるが、その視線ではない。
 ふと気がつけば、その視線はもう感じなくなっていた。
「‥‥何だかなぁ」
 最近、敏感になりすぎている。そんな不安をかき消すように、潤は小さく首を振った。
 電車の扉が閉まり、電車は行ってしまった。
「‥‥気のせい、気のせい」
 潤は自分にそう言い聞かせ、自分一人しかいないプラットホームを後にした。


 潤は家賃の安いボロアパートに住んでいる。六畳一間、トイレと台所、風呂はちゃんとついている。彼が気にしていたのは、その一間が畳張りであるという事だった。
 座敷童という幽霊は、畳に宿っている霊らしい。姿は子供。男の子と女の子、両方いる。着物を着ていて、寝ている人の枕元に立つ。性格は大人しく、人間に対しては友好的。
 そして寝ている人間を金縛りにする。それなのに、見た者を幸福にする。
「矛盾してるじゃん、この幽霊」
 居間に寝転がり、テレビをつけながら、その本を読んだ。ざっと読んで分かった事はその程度だった。
 読み終え、座敷童ではないな、と潤は思った。なにせ、外にいてもその存在を見てしまったり、感じてしまったりするのだ。畳の幽霊ならば、それはおかしい。その時点でアウトだ。
「‥‥風呂でも入るか」
 とんだ取り越し苦労だと思い、起き上がる。風呂場に行き、蛇口を全開にする。そして、風呂が溜まるまでに、湯上がりの準備をする。
 台所にあるコップを一つ取り、軽く水に濡らし、冷凍庫に入れる。風呂から上がり、冷たくなったコップにビールを注ぎ一気に飲む。それが彼にとって至福の一時だった。
「これが無くっちゃな」
 潤で満足げに頷く。そうこうしている内に風呂がいっぱいになった。潤は冷凍庫のドアを閉めて、パジャマ片手に風呂場に向かった。


 次の日。
 小鳥の囀りが聞こえる。朝日に照らされた潤は薄く目を開けながら、ノビをしようとした。しかし、体が動かなかった。
「‥‥? あれ?」
 昨日、寝る前にビールの一気飲みをしたのがいけなかったのだろうか? 指は動く。しかし、腕が動かない。まぶたは動く。でも、首は動かない。
 指と顔の部品以外の体の部分がまったく動かない。まるで縄か何かで縛られているようだった。
「‥‥縛り?」
 彼にその趣味は無い。というか、自分で自分を縛る奴はいない。彼の体は、何も縛られていないのに、動かなかった。
 そう、それは金縛りだった。
「‥‥マジかよ」
 昨日、座敷童に関する本を読んだのがまずかったのか。昨日の電車の件といい、最近過敏になり過ぎているから、無意識の内に金縛りになってしまったのだろうか? 様々な憶測をするが、結論が出るはずも無かった。
 何にしてもこのままではまずい。潤は懸命に右往左往する。しかし、体は言う事を聞いてくれない。
 その時だった。誰かが潤の顔を覗き込んだ。
「うおぉう!」
 思わず潤は絶叫した。その誰か≠煖チいたらしく、彼の視界から消える。
「だっ、誰だ、お前!」
 そう怒鳴るが、相変わらず体は動かない。返事も無い。
潤の額から冷や汗が滲み出す。今、この部屋には彼とその誰か≠セけ。つまりそれは危険かもしれないという事だ。
「‥‥」
 しばらくして、その誰か≠ェ再び潤の顔を覗き込んだ。女の子だ。工藤先輩よりも少し長い黒髪、大きくてクリクリしている瞳、小さな口と鼻。そして、赤と焦茶の縞模様の着物。
 その子は無言で潤を見下ろしていた。
「‥‥」
「‥‥」
 黙ったまま1分。潤の頭にある言葉が浮かんでいた。
 金縛り、畳、着物を着た女の子。その情況で導きだされる答えはそれしかなかった。
 そう。この子は座敷童だ。
 座敷童と思われる子は、不思議そうな顔で潤を見ている。何を言いたいのかさっぱり分からない。ただ、襲ってくる気配は無い。
 潤はその子に優しい声で言う。
「俺の体‥‥動かないんだけど、君がやってるの?」
「‥‥」
 コクリと首が一首肯き。
「だったらさ、解いてくれないかな? ちょっと苦しいんだよね」
「‥‥もう少しで、解けるから」
 その子はそう言った。潤はその言葉を聞いてホッとため息をつく。ちゃんと返事をする。どうやら、会話はできるようだった。とは言うものの、そのもう少し≠ニはどのくらいなのか分からない。
「ねぇ、そのもう少しってどのくらい?」
「もう少し」
「‥‥だから時間で言うと?」
「あっついお茶が一気飲み出来るくらいになるまで」
「‥‥」
 分かりづらい例えだ。潤はまた大きなため息をつく。
「あのさ‥‥俺、大学に行かなくちゃいけないんだ。分かる?」
 潤は諭すように言う。すると、その子は少し困ったような顔をしてしまう。
「一度やっちゃうと、私でもしばらくは解けない。待ってて」
「‥‥マジ?」
「マジ」
 潤が金縛りから解放されたのは、それから20分後の事だった。


「君、誰?」
「シキ」
「ザシキ<純宴Vだから?」
「? シキはシキだよ」
 シキと名乗ったその子は、チョコンと正座をして潤の目の前に座っている。背は相当低く、かなり幼く見える。歳は高く考えても15か6くらいだろう。
 しかし、この子シキは潤の考えていた幽霊とは随分違っていた。
「‥‥何してるの?」
「いや‥‥頬をつねってるんだけど」
「‥‥いはい(痛い)」
「感触がある」
 そうなのだ。この子には肌の感触があるのだ。つまり、ちゃんと触る事が出来る。更に足もある。会話もできる。幽霊らしさなどどこにも無い。
「君‥‥シキ、だったかな? シキちゃんさ、幽霊なの?」
「幽霊? 何ソレ?」
 シキはポカンと潤を見つめる。潤を眉間を揉んだ。どうやら、何も分かっていないようだった。
 その時、彼の脳裏にある思いが浮かんだ。そうだ、この子は迷子か何かなのだ。偶然、昨日の夜、俺の部屋に入り込んできてしまった。そうだ、そうに違いない。
「君、迷子でしょ?」
「迷子? シキは迷子なんかじゃないよ」
「じゃあ、何なの?」
「シキはシキだってば」
「‥‥」
 らちが空かない。しかし、迷子というのも無理があった。普通に考えて、夜中に女の子が他人の家には来ない。服装も不自然だし、更にあの金縛りだ。やはり、迷子などではなく、座敷童なのだろうか? それ以前に、座敷童なんていう存在があっていいのだろうか?
「‥‥ええい!」
 潤はグシャグシャと頭をかいた。もう何が何だか分からない。メチャクチャだ。そう思った瞬間、彼の頭に渦巻いていた疑問がシャボン玉のようにパッと消えてしまった。
「‥‥やーめた。考えるだけ無駄だ。君は座敷童。そういう事にしよう。食われるわけでもないし」
「そうそう。そういう事にしよ」
「お前が言うな」
 潤はシキの頭を軽く叩いた。シキはわけが分からなかったようだが、はにかんだ笑顔を見せた。
とりあえず害は無さそうだ。なら、今はそれでいい。今日の夜にでも工藤先輩に来てもらって、それから今後の事とか細かな事を考えればいい。そう、潤は考えていた。
 割り切ってしまうと途端に腹が減ってる事に気付く。
「とにかく、メシでも食うか」
「うん」
 シキは嬉しそうに答える。潤は頭を掻いた。
「君も食べるの?」


「潤‥‥。お前、頭おかしくなったんちゃう?」
「違いますって。本当なんです。本当に今、俺の家に座敷童がいるんです」
「お前、ナンパ下手やなぁ。女を家に呼ぶ時に、そんな口説き文句しか言えへんのか?」
「違うっちゅうに!」
 大学の帰りの電車の中。潤は事の全てを工藤先輩に話した。しかし、彼女はまったく信用してくれなかった。当然と言えば当然だろう。いくら心霊会に所属していると言っても、幽霊がいます、はい信用します、とはいかない。
「とにかく、今日家に来てください。そうすれば全部分かりますから」
 全然信用していない工藤先輩を、潤は無理矢理駅に降ろした。
「潤。お前、公園で遊んでる女の子誘拐したんとちゃうか? 最近、そういう物騒な事件が増えとるからなぁ」
「だーかーらー」
 潤は工藤先輩にギロリと睨みを効かす。工藤先輩はその視線をサラリとかわし、潤の頭を撫でた。
「はいはいはい、分かったわぁ。とにかく、そのシキとか言う女の子に会わせてや」
 こうして工藤先輩は潤と一緒に彼の家に向かった。



「‥‥潤」
「これで信じてくれましたか?」
「ロリコンだったって事か?」
「何でそうなる!」
「だってぇ、この子メッチャ可愛いんだもん!」
 工藤先輩はシキを膝の上に乗っけて、頬をつついたり耳を引っ張りする。シキは恥ずかしそうに頬を朱に染めて、身をよじっている。
「うう‥‥くすぐったい」
「くーっ! 可愛い! もっとやったろ」
「‥‥うう」
 シキの色々な所をつねったりする工藤先輩。その度、シキは体をくねらせて身悶えする。潤はその中途半端にえっちい光景に思わず見入ってしまう。
「‥‥ハッ! いかんいかん。ですからね、先輩。この子が座敷童なんですって」
「潤‥‥。それ、本気で言うとるんか? この子、ちゃと触れるやん。足だってちゃんとついとる。話もできる。信じろっちゅう方が無理や」
 シキにちょっかいを出しながらも、工藤先輩は冷静に言った。潤は黙る。確かに、彼女の言う通りだ。だが、そんな事で潤は引き下がらない。
「シキ、今朝みたいに金縛りやってくれよ。この女の人に」
 潤が頼むとシキは工藤先輩を見上げ、コクンと小さく首肯いた。
「てい」
「‥‥(潤)」
「‥‥(工藤先輩)」
「‥‥(シキ)」
「潤、この子、今何したんや?」
「‥‥あれ?」
 工藤先輩の動きはまったく止まらず、シキは好き放題いじられている。予想していた光景にならない事に、潤は眉を潜める。
「おい、シキ。ちゃんとやってくれよ」
「‥‥もう少しだから」
 そう一言だけ言うシキ。解けるのにも時間がかかったから、掛かるのにも時間がかかるのだろうか? と潤がそんな事を思った時だった。
「‥‥んっ?」
 工藤先輩の動きがピタリと止まった。シキは素早く工藤先輩の腕から抜け出し、潤に引っ付き、顔をポリポリと掻く。猫のようだ。
「おい、潤。体がまったく動かなくなってしもうたで。どうなったんや!」
 シキにちょっかいを出していた時とまったく同じ形で、工藤先輩はあたふたしている。格好が格好なだけに、実にマヌケな姿だ。潤は満面の笑みでそのマヌケ姿を見つめる。
「どうっスか? この子は座敷童なんですよ。だから、こんな魔法みたいな事が出来るんです」
「マジか?」
「じゃあ、今の先輩はどう説明するんですか?」
 工藤先輩の動きが止まる。今度は強制ではなく、自分からだ。
「‥‥分かった、信用する。この子は座敷童や。それでええから、早く解いてや。メッチャ格好悪いで」
「ところがですね、しばらくは解けないんですって。なっ? シキ」
 コクコクと頷くシキ。工藤先輩が犬歯を剥き出しにする。
「コクコクやない! どのくらいこうしていればええんや!」
「‥‥ご飯が炊けるくらい」
「ながっ!」
 かくして、工藤先輩が金縛りから解放されたのは、それから30分も後の事だった。


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