「Gun Ballade」  その@


「‥‥何故、私が?」
 金原泉(かなはら いずみ)は俺の目を見ずに言った。
「俺には分からない。依頼人がお前を要求した」
 俺は泉のこめかみに銃口を構えて、冷徹に言い放った。しかし、泉の顔はピクリとも反応しない。潤んだ瞳が、闇の中で一際美しく光り輝いている。
「‥‥そうなんだ。殺されるの? 私」
「いや。お前を無傷で生きたまま連れ出せ、というのが依頼だ。だから、殺さない。傷つけもしない」
「でも、その拳銃は本物なんでしょう?」
 泉は流し目で、俺を見る。ウェーブのかかった黒髪が、フワリと浮かぶ。俺は思わず、その蠱惑的な光景に見入ってしまう。
「ああっ。撃つ気は無いがな」
「じゃあ、しまってよ」
「‥‥」
 泉は本物だと言われても依然落ち着いている。俺は泉が抵抗する様子が無い事を確かめ、銃をコートの中にしまった。
 辺りに人はいない。狭い街路樹には紙クズや生ゴミが散乱している。お世辞にもこんな美人の女の似合う所ではない。かろうじて、月明かりだけが彼女に相応しい。しかし浮かぶ月は、決して都会の空では強く輝いてはくれない。
 極上の女だ。男を惑わす、ありとあらゆる色気を放っている。流れるような長い黒髪、深い瞳、高い鼻、ルージュの赤い口紅の塗られた扇情的な唇、細い首、程よく出た胸、美しい流線型を描く腰、男の視線を釘づけにする尻、綺麗な声。どれをとっても、文句のつけようがない。漆黒のドレス、首や耳、指に光っているダイヤやルビーの装飾品、汚れ一つ無いハイヒール。全てが彼女には合っていて、それはまるで、一つの芸術品のようだった。
「どこへ連れて行くの?」
「この近くに俺の車がある。それに乗ってもらう」
「その後は?」
「知らない。俺の役目はお前を指定の場所に連れていくだけだ」
 そう言って、俺は泉の手をとる。俺が手を掴んでも、泉は何の抵抗もしようとしない。俺はあまりにも泉が冷静すぎて、少し恐くなる。まるで、あらかじめこういう事が起きる事が分かっていたかのように、冷静だ。だから、常に銃は抜けるようにスーツの中に手を入れながら、もう片方の手で泉の手を引いた。
「大丈夫よ。別に誰も来ないわ」
「‥‥‥お前があまりにも冷静なんでな。信用出来ない」
 そう言うと、泉は俺の手を強く握る。
「信用してよ」
「‥‥」
 結局、誰も来る事無く、泉は俺の車にも乗ってくれた。


「ねえ、あなたの事、教えて」
 窓の外で流れていく夜の街並みを眺めながら、泉は言う。スリットの入ったドレスから真っ白い太股が見える。扇情的な光景だ。
「日本じゃ非合法な、銃を所持している。それだけ分かれば十分だろ?」
「‥‥それもそうね。それにしても、生まれて初めて見たわ。殺し屋なんて」
「普通は見ないものだ」
「じゃあ、私って普通じゃないって事? 普通の生活してきたわよ」
「十六歳で家出。二十歳まで不良をやって、偶然街中でスカウト。ポップミュージシャンになり、今はオペラ歌手。しかも日本有数の歌姫。それが普通か?」
「あなたよりは」
「‥‥そうだな」
 黒い車のボディーが、ネオンの光を反射する。七色の輝きは、流れてはすぐに消える。
「でも、とても殺し屋には見えないわよね」
「見た目で分かったら、大問題だ」
「そういう意味じゃないわよ。何かこう、若いパパって感じよね」
「‥‥パパ?」
 思わず拍子抜けた声を出してしまう。俺に気楽に声をかける奴自体あまりいなかったが、若いパパなどと言われたのは初めてだった。
「冗談はやめてくれ。結婚もしてなければ、子供もいない。そんなもの、いらない」
 声を荒げると、泉は皮肉っぽく笑ってみせる。
「ふふっ‥‥きっと似合うわ。顔だっていいし」
「‥‥」
 言葉が途切れると、再び車内は静かになる。しかし、さっきのふざけた会話のせいか、その静寂は気まずくない。
「ねえ、誰が私を?」
 泉がこちらを見る。黒いドレスに黒い髪の毛、それに黒い瞳。この女は、俺の車に乗ると消えたように見えなくなる。俺は黒い闇に向かって言う。
「それは教えられない」
「それじゃあ、私をさらえばいくら貰えるの?」
「二百万だ」
「あらあら? 安いのね。これでも、有名なオペラ歌手やってるつもりなのに」
「人を殺さなくて済むからな。安いんだ」
「ふうん」
 相変わらずの様子で、泉は再び窓の方を向く。しかし、その手には俺の携帯電話が握られていた。コートのポケットに入っていたやつだ。
「いつ盗ったんだ? 返せ」
 カチカチとボタンを押す泉から、俺はふんだくるように携帯電話を取り返す。泉は小さく笑う。
「不良の頃は毎日みたいに万引きしてたの。まだまだ、私の腕も鈍ってないわね」
「‥‥」
 俺はその笑いを無視して、車のアクセルを強く踏んだ。車は五月蝿い都会の中を蝙蝠のように滑走していった。


「ねえ、何で人殺しなんかを仕事にするわけ? 仕事すればする程、あなた犯罪者になっていくのよ」
 お喋りな女だ。しかし、車の中はラジオもかけられていなければ、音楽も流れていない。
静かなエンジン音しかなければ、こいつも喋りたくなるのだろう。
「誰かが死ねば、誰かが喜ぶ。人は誰も恨まず生きていられる程、都合のいい動物じゃない。俺にもそういう人がいた。だから、殺した。そうしたら、いつの間にかこういう仕事をしてた」
「‥‥‥悲しむ人もいるわ」
「言われなくても分かってる。だけど、それが分かっていても、人は人を恨み続ける。だから、俺の仕事は無くならない」
「悲しい話ね」
「仕方の無い事だ」
 何でこんな一時だけの女にこんなに喋ってしまうのだろう、と思う。今まで、何人人を殺してきたか分からない。こいつも、所詮はその内の一人に過ぎない。殺しはしないが、一瞬の関係という事に変わりはない。
「生き甲斐を感じるの? その仕事に」
 少し笑いながら、泉は訊ねる。どこか自虐的な笑いだ。
「人を殺す事に生き甲斐なんてない。でも、俺にはこれしかない。今更、普通の社会には行けない」
「ふふっ、私も」
 泉は耳に付けられていた銀色のピアスを取る。口紅もハンカチで落とし、首にかけられていたネックレスを外す。
「‥‥お前は順風満帆な人生じゃないか。地位も名誉もある。偶然だが、でも、お前の実力だ。何故、生き甲斐を感じないんだ?」
 お喋りだな、と感じる。俺が相手に対して質問するなんて、今まで無かった事だ。何故だろう? 確かに魅力的な女だ。機会があれば何度でも抱いてみたい、と思う。でも、そんな肉体的なものが理由じゃない。もっと、別の何かに惹かれる。目に見えない何かに。
 泉は窓を開けて、ピアスとネックレスを投げ捨てる。
「別にやりたいなんて思ってなかったしね。確かに才能はあったみたいだけど、才能と夢が一緒じゃなかったって事よ」
「それじゃあ、辞めて自分の好きな事をやればいい」
 そう言うと、泉は少し驚いたような顔し、そして少し笑った。何がおかしいのだろう。
俺にはよく分からなかった。笑いを圧し殺し、泉は言葉を続ける。
「それが無いから、辞められないのよ」
「無いのか?」
「‥‥ある事はあるんだけどね。それはきっともう、叶えられないから」
 遠くを見つめながら、泉は言う。その瞳は過ぎていく街並みを見てはいない。
「それは何だ?」
「聞きたいの? この車がどこかに到着したら、それで終わりの関係なのに?」
 泉の言う通りだ。この仕事が終わったら、きっともう彼女と会う事は無い。テレビの中で見る事はあっても、実際に会うのはこれが最初で最後のはずだ。なのに、俺は彼女の 「なりたいもの」というのがとても知りたかった。彼女は今まで会ってきた女とは違う。薄い幕か何かに包まれているようで、はっきりとその正体が掴めない。その口から出る言葉さえも、全て幻聴のようにすら感じてしまう。だからなのか、彼女の「真実」らしい事を知りたかった。
「それで終わりなのだから、言ったっていいじゃないか」
 そう返すと、泉はきょとんと俺を見つめ、次の瞬間には可愛らしくころころと笑った。
「ふふふっ、なかなか言うじゃない。そんな冗談めいた事、言えない人だと思ってた」
「‥‥」
「私ね、普通のお嫁さんになりたいの。毎日、大好きな夫のお弁当作って、女の子を一人産んで‥‥。何の変哲も無い人生が送りたいの」
 憧憬の思いで、泉は語る。確かに、今の彼女にとって、それは夢だろう。人気絶頂の彼女にそんな普通の生活など、まず営めない。
「だったら、結婚して仕事を辞めればいいじゃないか」
「ダメよ。だって、夫になってくれる人なんていないし。私もあなたと同じかも。きっともう、普通の生活は送れない。それに、私はこれからどこに行くのかも、何をされるのかも分からないんだから」
「‥‥」
 泉は、冷めた口調でそう言った。最後の一言は、間違いなく俺に向けられた言葉だった。
俺の事の仕事も、彼女の夢を遮るものでしかない。この後、彼女が何をされるのかは分からないが、少なくとも、彼女が望む結果にはならないと思う。情が移ったわけではないが、車を運転する事に躊躇いを感じてしまう。
 しかし俺は車を止める事は出来ない。これは仕事だ。私情と仕事とは切り離さなければいけない。頼まれて承諾した仕事を、失敗させるわけにはいかない。
「‥‥すまない」
 なのに、俺はそう言ってしまった。そんな事を言う必要なんか無いのに、勝手に言葉が出てしまった。それを聞いて、泉が目を細め、小さく微笑む。
「いいのよ。あなたはそれが仕事ですものね。私は別にあなたの事なんて恨んでないわ」
「‥‥」
「そう‥‥。私が悪いのよ。こんな人生に生まれた私が、ね」
「‥‥」
 そこまで言うと、車の中が再び静寂に包まれた。俺も泉も、何も言わない。泉の方はよく分からなかったが、少なくとも俺は、彼女に何と言えばいいのか分からなかった。
 外ではネオンの輝きが薄くなっていく。都会から離れていっているのだ。車の向かう所は、都会ではない。
 夜の闇は、無音のまま車を飲み込んでいく。
「ねぇ‥‥歌っていい?」
「‥‥何だって?」
「車が止まるまで、歌ってていい? 私、静かなのって苦手なの。静かな曲にするから。いいでしょ?」
 そう言って、彼女は俺の返事を聞く前に歌いだした。テレビなどで何度か聞いた事のある曲だった。確か、オペラの一幕で流れた曲だ。しかし、どんな話だったかは忘れてしまった。
 何とも哀しげなバラードソングだった。しかし、彼女の澄んだ歌声はどこか心を癒してくれる。いや、心まで浸透していくのだ。彼女が日本有数のオペラ歌手だと言われているのにも首肯ける。俺は、結局何も言わず、その寂しげなバラードを聞きながら、車を走らせた。
 夜は、まだ明けない。


 車が着いた場所は、街からかなり離れた、小さなビルだった。人気は無い。ひどく寂れていて、よっぽどの事が無い限り、自分からこちらに来る事は無いだろう。
 車が到着すると、ビルから二、三人の男達が出てくる。スーツ姿で、胸の辺りが膨らんでいる。どうやら、拳銃を所持しているようだ。
 俺は車から降り、泉の方のドアを開ける。車に乗っていた時は物怖じすらしていなかったが、さすがにこれから何が行なわれるのか分からないからなのか、泉は少し怯えているように見える。
「ごくろうさまです。それじゃあ、彼女は我々が預かります」
 男の一人が、泉の腕をとる。泉は抵抗しようとしない。俺は黙って、その様子を見つめる。その瞳に強さは感じない。
「中に入ってください。長(おさ)の方から、報酬が支払われますので」
「ああっ」
 俺は助けを乞うような瞳の泉から無理に視線を外し、一足早くビルの中に入っていった。背中越しに、泉の痛々しい視線を感じた。


 目を閉じて、全てを閉じ込めようとしても、耳から聞こえてくる。悲痛な、泉の声が。
「これが目的だったのか?」
 俺はゆっくりと目を開け、前にいる男に言った。恰幅の良い、五十くらいの男がいる。ヒキガエルを連想させる分厚い唇には葉巻がくわえられ、男の印象はお世辞でも良いとは言えない。
 男は葉巻を手に持ち、低く笑う。
「悪いか? 殺し屋」
「‥‥そうは言っていない。だが、ファンだったら怒るだろうな」
「お前はファンなのか? 彼女の」
「‥‥」
 俺は答えなかった。別の、遠くの部屋からは相変わらず泉の声が聞こえる。その声に重なるように、数人の男達の声がした。
 コンクリートの壁が剥出しにされた、貧相な部屋。ここに来る前に、泉とは離れ離れになった。その後、泉がどこに連れていかれたのかは分からない。部屋の隅には使い古された机や、ベッドがある。今この部屋には俺と男の二人しかいない。この男が長なのだろう。
 男と俺の間にある鈍色のテーブル。その上に一つの封筒がある。俺はそれを手に取り、中身を確認する。番号の揃っていない一万円札が二百枚が収められていた。俺はその封筒を無言でポケットにしまう。
「帰るのか? 見てみたらどうだ?」
 男は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「結構だ。そういう趣味は無い」
「覗きにか? それとも、あういうプレイがか?」
「‥‥どちらもだ」
 誰かが幸福になれば、誰かが不幸になる。これは、俺がこの仕事を始めた時から変わらない信条だ。例え今、泉がどんな目に逢おうとも、その思いは変わらない。ただ、この男の依頼を受けた事は、ひどく後悔した。
 俺が立ち上がると、男も重い腰を持ち上げた。葉巻を床に落とし、高級そうな靴で踏み潰す。
「さてと、私も行くとするか。もうそろそろ、頃合いもいい時間だろう」
 誰に言うでもなく、男は呟く。俺は男を無視して、一つしかない扉に向かった。
 重い扉をゆっくり開ける。その時だった。思いもよらない光景が目に飛び込んできた。
「‥‥あっ」
「はぁ‥‥はぁ‥‥助けて!」
 そこには、ビリビリに裂けた服を着た泉が立っていた。立っていたと言うより、どこからか逃げてきてここまで来た、という感じだった。泉は俺を見つけると、泣き叫んで俺に近寄ってきた。目には大粒の涙を溜めていた。車の中での気丈な振る舞いなど欠片も残っていなかった。
「待て! この女!」
 泉の後ろから、二人の男が走り寄ってくる。泉はそれを無視して、俺に抱きついてきた。
それはまるでさながら、小雨に濡れた子猫のようだった。俺はそんな彼女に手を差し伸べる事が出来なかった。
 泉の後ろから来た二人の男が泉の手を押さえる。
「いやぁ!」
「大人しくしろ!」
 泣き叫ぶ泉を、二人の男は無理矢理押さえ込む。泉は必死に俺のコートの端を掴み、それに抵抗する。俺はどうしていいか分からず、ただそこに立っている事しか出来なかった。
「お願い! 助けて!」
 泉は涙目で俺を見た。細い指で懸命に俺のコートの端を握る泉。その時俺は、無性に彼女の手を取りたくなった。しかし、後ろからはあの男の強い視線を感じる。泉の手を握り返す事は出来なかった。
 ずるずると二人の男に引きずられていく泉。いつの間にか手は放され、俺と泉の距離はどんどん広がっていってしまった。そして、今になってようやく少しだけ手が前に動いた。
 結局俺は、何も出来なかった。
「‥‥いい心がけだ。殺し屋」
「‥‥」
 後ろにいた男が、俺の肩を叩きそう言った。俺はこいつを殴りたくて仕方なかった。しかし、グッと歯を食いしばってそれを堪えた。
 泉の声が遠くなっていく。もうその姿も見えない。そして、どこかの扉が閉まる音が聞こえると、その声はほとんと聞こえなくなってしまった。
 男が俺の横を通りすぎて、視界から消えていく。俺は一人とり残された。
「‥‥」
 独りぼっちになった、と不意に思った。


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