雨が降っている。灰色一色のコンクリートジャングルは、雨の中では死んだように冷たい。俺は高いビルの一室でウィスキーを飲みながら、飽きる事無く窓から見える街の風景を見ていた。時間は午後二時だというのに、陽光はどこにも顔を出していない。髪の毛が湿って、気持ち悪かった。
あの日から、三日経っていた。俺はその間、全ての仕事を断った。いつもなら断らないのだが、泉の事が気になり、仕事をする気になれなかった。
何故あの女がそんなに気になるのだろう。今まで、レイプを見てきた事が無かったわけではない。こんな仕事だ。人の醜い部分など嫌になる程見てきた。殺人、拷問、レイプ‥‥。最初は吐き気さえ催したものだが、今では何とも思わない。人は人である限り、自分の欲に正しくあろうとする。あの事でさえ、大きな世界の中の一欠片の悲劇にしかすぎない。
なのに、何故か泉の事が気にかかる。目を閉じれば、あいつの姿が浮かび、耳をすませば悲しいバラードが聞こえてくる。
テレビをつければ、金原泉失踪の言葉をよく見かける。人気オペラ歌手だ。きっと何か公演でもあったのだろう。犯罪心理学に精通している学者か何かが、色々と推測を立てているが、どいつもこいつも生温い事ばかり言っている。真実などこれっぽっちも知らない馬鹿者達だ。
雨は降り止まない。泉もあのビルの窓からこの雨空を見ているのだろうか。‥‥まだ、生きているのだろうか?
「‥‥」
膝の上に置かれた俺の拳銃、ダブル・イーグル。ドイツ製のオートマチックタイプの拳銃。そいつは銀色に鈍く輝き、俺の膝の上でひっそりと眠り続けている。決して俺を裏切らない、最初で最後の俺の相棒。俺はおもむろに銃を取ると、マガジンを引き抜く。弾は入っていない。十二発入りだが、それを一回の仕事で使いきった事は無い。せいぜい、一発か二発だ。
「‥‥」
俺に出来る事は、こいつの引き金を引く事だけだ。それ以外、何も出来ない。誰かを殺せば、誰かが幸福感を得る。だから、あの時の俺には何も出来なかった。
後悔などありはしない。あいつだけが特別な存在ではないのだ。いや、人は必ず誰かにとって特別な存在だ。あいつに限った事じゃない。今まで殺してきた人達だって、他の誰かにとってはかけがえのない人だったはずだ。それを俺は無慈悲に殺してしてきた。
あいつにとって、かけがえのない人とは、誰なのだろう‥‥。
そんな事を思っていた時だった。
携帯電話が鳴った。この携帯に来る電話は仕事の依頼以外無い。俺は携帯電話を取ると番号を確認した。知らない番号だった。俺は電話に出る。
「もしもし?」
「‥‥」
「‥‥もしもし?」
何の声も聞こえない。俺は耳を澄ませるが、やはり何も聞こえない。俺は電話を切ろうとするが、その時、聞き覚えのある歌声が受話口から聞こえた。
「‥‥」
間違いなかった。その歌声は泉の声だった。俺は慌てて受話口に耳を当てる。か細く、今にも消えてしまいそうな歌声は、それでもずっと歌われ続けた。一分程続いた歌が止むと、乾いた泉の笑い声が聞こえた。
「‥‥ふふっ、何でこの番号知ってるのか、教えてあげようか? 車の中で、あなたの携帯電話をとった時に、見たの」
「どこにいるんだ? お前」
「あのビル。今は‥‥休ませてもらってるの」
初めて会った時とはあまりにも違う、弱々しい声だった。衰弱し、声を出すのさえやっとのような、そんな絶望的な声だった。手の甲が汗でじっとりと滲んでいくのが分かる。
乾いた声のまま、泉は静かに言う。
「‥‥私ね、普通のお嫁さんになりたいの」
「知ってる」
「言ったっけ? ‥‥ははっ、なれるかな?」
泉は俺に答えを求めていた。そう。それは、助けを乞う質問。俺は、迷う事無く言った。
「ああっ、なれるさ」
「ふふっ‥‥ありがとう」
そこまで言うと、電話は切れた。彼女の声が無くなると、雨がコンクリートを叩く音しかしなくなる。俺はゆっくりと携帯電話を置くと、相棒を見た。相棒は眠り続けている。しかし、目覚めを待っている。
もうダメだな、俺は。俺ははっきりとそう思った。
「また‥‥これできっと最後だが、厄介になるぞ」
「‥‥」
俺は銃を手に取り、立ち上がった。
「何故、またここに?」
電話のあったその日の夜。あのビルの前に車を止めると、いつか見たスーツ姿の男が二人、俺の車に近づいてきた。片方の手はスーツの中にある。いつでも銃を抜けるようにしているのだろう。
「約束があるんだ」
「‥‥‥長にですか?」
「いや‥‥」
その瞬間、俺は右手に持っていた銃を素早く男に向け、何の躊躇いも無く引き金を引いた。特注のサイレンサーをつけている為、音はほとんどしない。銃弾は男の額に当たり、真っ赤な血飛沫が飛ぶ。俺は男が絶命するのを確認する前に、もう一人の男に銃口を向けて引き金を引いた。
一瞬の事だった。二人の男は何も分からず死んでいった。鼠色のスーツは深紅に染まり、目を開けたまま、その場に倒れている。
俺は車から降り、サイレンサーを外す。サイレンサーを付けていると射程距離が短くなってしまう。この二人以外だったら、銃声が聞こえようとも構わない。俺はズボンに差してあったもう一丁の拳銃を取り出す。同じダブル・イーグルだ。二丁同時に使うのは初めてだが、中に何人いるか分からない。これくらいの事はしなければいけないだろう。
俺は二丁共スライドを上げ、小さく息をついてビルの中に入っていった。
歌が聞こえる。微かに、でも確かに俺の耳は彼女の歌声を聞いている。悲しみと希望に満ち溢れた儚げなバラード。俺はその歌に導かれるように、足を進めていく。
「何だ? お前‥‥」
目の前に現れた男に向かい、引き金を引く。ズドンズドンという腹に響く音がこだまする。男は腹と首から血を吹き出し、その場に倒れる。俺は男をまたぎ、奥へと進んでいく。
コンクリートの床は、嫌でも俺の靴音を反響させる。俺はそれを承知で早足で進んでいく。まだ微かに残っている手の振動が、次の獲物を渇望している。
奥にある部屋から、何やら物音が聞こえる。その音からして、いるのは一人や二人ではない。俺は足早にその部屋の入り口付近まで近づき、バッと中に飛び込んだ。
「こいつ!」
「うわあああ!」
怒号と共に鳴り響く、無数の銃声。男達はマシンガンを手にしていた。人数は三人。三つの銃口から、一斉に銃弾が飛び出す。圧倒的に不利だが、躊躇していられない。俺は両腕をのばし、ありったけの力で引き金を引く。
全てがスローモーションになって見える。静かな音楽を、無数の銃弾が切り裂いていく。
耳の横や、脇の下を銃弾が通り過ぎていく。俺の銃から飛び出した銃弾は三人の内の一人の太股と腰に命中する。男は態勢を崩し、マシンガンを連発させたまま倒れる。倒れた衝撃で男の持っていたマシンガンが暴発し、隣にいた男の頭を吹き飛ばした。俺は身を屈めながら、残ったもう一人の顔面めがけて引き金を引く。男のマシンガンから飛び出した弾が、コートに穴を空けていく。しかし、俺の体に穴は空かない。
「うっ!」
残った男の肩に穴が空く。それから血が噴水のように吹き出す。男はマシンガンを落とし、肩に手を当ててしまう。俺はここぞとばかりに男に一気に近づき、恐怖におののいた男の額に銃弾を撃ち込んだ。男の後頭部が吹っ飛び、脳味噌の欠片が血と共に弾けた。
「‥‥」
三つの屍を確かめた俺は、マガジンを取り替える。二十四発もの銃弾をあっという間に使い果してしまった。俺はマガジンを取り替えた後、死体になった男達から二丁のマシンガンを奪った。典型的なサブ・マシンガンのウージータイプだ。弾数はおそらく三十発はまだ残っているだろう。俺はそれを手にして、血臭のする部屋を出た。
音楽は続いている。それは途切れる事無く、悠久の昔から続いているように。俺はその歌の聞こえる方へ足を進めていく。そこは地下だ。
ダン ダン ダンッ!
鳴り響く銃声。地下の階段を降りると二人の男達が銃を手に構えていた。そして、俺を見つけるやいなや、半狂乱で撃ちまくってくる。俺は階段の手摺り部分に身を隠す。ガリガリと鈍い音がして、コンクリートの手摺りに銃痕が刻まれる。
しばらく続いた銃声が止む。マガジンを取り替えているのだ。俺はその隙を逃さず、身を曝け出し、階段を数段一気に飛び降りて、男の一人に蹴りを与える。
「うぐぁ!」
一人が床に頭を打ち付ける。俺はすかさず、もう一人の頬骨に向かってマシンガンの柄を振り払う。ゴキンという音と共に男の頬骨が砕け、男の口から鮮血と数本の歯が飛び出す。俺は倒れた男の首に靴裏を叩きつけ、同時に頬骨を砕いた方の男の腹に十数発の銃弾を撃ち込む。
撃たれた男が、仰向けに倒れる。そして、首に一撃を与えた男の方にも数発の弾を送った。
「‥‥」
訪れる音楽だけの静寂。俺は息を整えながら、地下の部屋を見渡す。歌声の聞こえる部屋はたった一つ。三日前に泉を見た、あの部屋だ。俺はマシンガンを捨て、再びダブル・イーグルを手にする。
その扉の把手に手をかけた時、歌声は止んだ。
「‥‥何のつもりなんだ? お前は」
長と呼ばれる男が、拳銃を持ってそこにはいた。三八経口の六発式のリボルバー、サタデーナイト・スペシャルだ。男と俺の距離は約十メートル。しかも、その間には分厚いガラスがある。俺のダブル・イーグルなら、奴に致命傷を与えられる。奴の銃では俺に致命傷は無理だ。
そして、男の足元に泉はいた。倒れて、ピクリともしない。長い髪の毛が床に広がり、その顔を隠している。しかし、どう見ても、その体は生きているようには見えなかった。動かないその手には、携帯電話が握られていた。
「何なんだよぉ! お前は!」
「‥‥約束を果たす為だった」
感情を圧し殺した言葉。
「何を言ってるんだ!?」
「もう‥‥約束は守れない。だが‥‥」
俺は男を睨み付け、銃口を奴に向ける。奴と俺の間にある、厚いガラス。俺の銃なら、このガラスを破れる。
「気違いだよ! お前は!」
鳴り響く銃声。ガラスが砕ける。どちらの銃弾で砕けたのかは分からない。しかし、奴の弾は俺の所まで届かず、俺の弾は奴の胸を貫いた。
奴は後ろに吹っ飛び、壁に背中を打ち付ける。血がバラのように咲き乱れ、奴はその場にうずくまった。俺は銃を構えたまま、奴に近づく。奴はまだ息をしていて、ドクドクと血の流れる胸を押さえたまま、俺を見上げる。
「彼女を犯し、殺した罪‥‥償え」
俺は冷酷に言い放つ。しかし、奴は僅かな笑みを浮かべている。
「お前‥‥やはり気が狂ってるな。気が狂っているか、超能力でもあるんだな」
「‥‥?」
「一つ教えてくれないか? 何故、女が死んだ事が分かったんだ? 女は昨日、自分で舌を噛んで死んだ。それを何故お前が知る事が出来たのか‥‥。ワシには分からん」
「‥‥‥何だって?」
目の前の男はおかしな事を言った。昨日、と言った。そんな馬鹿な。さっきまで歌が聞こえていた。その歌声を辿ってここまで来たのだ。さっきまで生きていたはずだ。それに、電話がかかってきたのは今日の昼過ぎ。昨日死んだのなら、今日電話をする事など出来ない。
俺は奴の言った事が信じられなかった。
「おい‥‥女は、昨日死んだのか?」
「そうだ。昨日の夜、ここで舌を噛んで自殺したんだ。ここにいる者以外、誰もその事は知らなかった。なのに‥‥どうしてお前は」
「‥‥電話が」
「彼女は地下から一歩も出なかった。ここは圏外だ。電話なんか、繋がるはずがない」
「そんな‥‥‥」
俺は自分の耳が信じられなかった。男の言葉。今日かかってきた電話。そして、さっきまで確かに聞こえていた歌声。全てが信じられなかった。
男は俺を卑下するような目で見る。もう、血は止まらないだろう。
「女一人に惑わされるようじゃ‥‥殺し屋失格だな」
それが男の最後の言葉だった。
まだ夜は明けない。都会の夜空に、星は瞬かない。月だけが、見える。
俺はぼんやりとその月を見上げていた。耳を澄ませば、まだ泉の歌声が聞こえてくるような気がした。
「‥‥‥」
私、普通のお嫁さんになりたいの。
あの言葉は、泉の声だったのだろうか? 分からない。あの時、泉はもう死んでいた。電話も繋がらないはずだった。なのに、俺は確かにこの耳でその言葉を聞いた。
ふふっ、ありがとう。
泉は、何に対してありがとう、と言ったのだろうか? それももう、俺には分からない。ただ、思い出だけが心に残っているだけだ。
遠い遠い、夢を見ているような気分だ。でも、何の高揚も無ければ、喜びも無い。ただ、ぽっかりと現実が消え失せたような、空虚な気持ち。
何かこう、若いパパって感じよね。
遥か昔に聞いたような言葉。俺はきっと、パパになんかなれない。死ぬまで、一人だろう。そう、泉がそうだったように。
「‥‥」
俺の車の助手席に座っている泉。もう二度と、彼女は歌わない。目覚めない。笑わない。俺は車に乗り込むと、彼女の膝の上に銃を乗せ、車を発進させた。
静かな車内。静かなエンジン音だけが、低くこだましている。俺はラジオをつける。そこから、人気ラジオパーソナリティーの低い言葉が聞こえてくる。
「皆さん、金原さんの無事を祈りましょう。ではここで、彼女の歌の中でも特に人気の高い曲を紹介します。この曲は彼女が主演したオペラの中で歌われた曲です。このオペラは現代が舞台で、殺し屋に恋をした女性の話です」
「‥‥」
「彼女演じるヒロインは、ある日、とある殺し屋と出会います。その殺し屋は彼女に銃口を当てて言うのです。“依頼主がお前を要求した”と。彼女は彼によってギャング団に拉致されてしまいます。しかし、彼女に恋心を抱いていた殺し屋が、たった一人でギャング団に戦いを挑みます。そう、彼女を助けだす為に。その時、彼女は彼の無事を祈って歌うのです」
「‥‥」
「そして、見事に殺し屋は彼女を助けだし、その後二人は死ぬまで連れ添って生きていくのです」
「‥‥」
俺は遠くまで続く深い闇へと車を走らせていく。
「ではお聞きください。金原泉で“ガン・バラード”」
終わり
あとがき
私はよくある事なのですが、この作品はタイトルから先に生まれています。「おっ、このタイトルカッコいいね。じゃあ、このタイトルに合う作品を書こう」と、こういう手順です。ガンと名がつくなら当然アクション物でして、そこにしんみりとした「バラード」がついたので、こんな話になりました。ちょっと不思議な話ですが、書いてる僕にもよく分かりません。皆様で想像してください。