Bloody Lover @


「‥‥何だって?」
 俺は目の前の女の言っている意味が分からなかった。女は短い髪の毛をかきあげる。
「あなた、もう人間じゃないのよ。吸血鬼。分かる? 吸血鬼」
「‥‥吸血鬼?」
「そう。まあ、すぐに理解してくれるとは思ってないけど、事実なのよ」
「‥‥」
 俺は女をじっと見つめた。綺麗な女だ。歳は20代後半くらいだろう。真っ黒い衣服に身を包み、人を射抜くような強い視線に、乱暴に切られた短い髪の毛をたずさえている。とても、狂人には見えない。だが、言っている事の意味はまったく分からなかった。
 女はやれやれと言った感じで、ため息をつく。
「あなた、さっき何が起こったのか、覚えてる?」
「さっき? ‥‥確か、信号を待っている時に‥‥」
 そこまで言って、さっきの事を思い出す。俺は信号で待っていた。その時、突然車が突っ込んできたのだ。‥‥その後の記憶が無かった。
 辺りを見回す。ビルの一室のようだ。だが、爆撃の後のように惨憺としていて、使われている様子は無い。今は夜らしく、ガラスも淵も無い、ただのコンクリートの穴から月光が入り込んできている。それだけが、今の俺を照らしている。
 女はその窓の近くに腰掛けている。彼女の手元には俺の鞄がある。
‥‥おかしい。いつここに来た? 車が突っ込んできて‥‥それからどうした?
「俺、何でここにいるんだ?」
「私が連れてきてあげたの。あなた、車とぶつかって結構な怪我だったのよ。だから私が吸血鬼にしてあげたの。吸血鬼って凄く丈夫で、傷なんてすぐに治るの。だから、あなたは助かったの」
「‥‥」
 俺はゆっくりと立ち上がる。怪我1つ無い。着ているスーツには至る所に傷があるというのにだ。
「君‥‥。助けてくれた事は感謝する。だが、正直君の言っている事はまるで理解できない。吸血鬼? ちょっと小説の読みすぎなんじゃないのか?」
 正直に言った。確かに俺の記憶と、女の言うその続きは、繋げようと思えば繋げる事もできる。だが、だからと言ってそんなわけも分からない事を言われても、頷けるはずが無かった。
 俺の言葉を聞き、女は1人で頷く。それから、手にしていた鞄の中から財布を取り出す。俺の鞄と財布だ。
「ええと、式野秀一(しきの しゅういち)。28歳。独身。音楽の先生で、現在トキワ高校にて教鞭を振るう、か。いい人生送ってるじゃない」
「おい、人の話を聞いてるのか? それにそれは俺のだ。返せ」
 俺が近づくと、女は笑って財布と鞄を投げつけた。
「‥‥私、帰るわ。今すぐ理解しろとは言わない。でもきっと、すぐに分かる時が来るわ。あっ、そうそう。少しくらいは包帯しないと怪しまれるわよ。人間ってすぐに回復しないもんだから」
 女はそれだけ言うと、俺に包帯を手渡し、スタスタと俺の前から去っていってしまった。俺は何も言えず、女の後ろ姿を見つめていた。


 廃墟ビルを出る。そこは俺のよく知ってる場所だった。学校に行く為に毎日通る交差点だの近くだ。今出てきたビルは近い内にショッピングモールになるという話を聞いた。
 交差点にはパトカーと救急車が止まっていて、それを囲むように野次馬がいる。俺はゆっくりとその雑踏に近づく。囲いの真中にグシャグシャに潰れた車があった。
「あっ、大丈夫ですか?」
 医者らしき白衣の男が俺を見て、驚いた顔をする。俺は何も言わずその医者を見つめ返す。初めて見る顔だった。
 黙っていると医者が続ける。
「怪我の方は大丈夫ですか? 聞いた話によると、たまたま医者の方がいて治療したとか」
 医者? あの女の姿が思い起こされる。そういう事か、と納得する。俺はここで事故に巻き込まれた。その時あの女が介抱するとでも言って、あのビルに連れ込んだ。
 そして、治療と称して俺を吸血鬼にした‥‥。そこだけは信じられなかったが、それ以外は納得がいった。
「はい、幸い軽傷だったみたいですし」
「軽傷‥‥ですか? 色んな所から血が出ていたし、相当危険だと聞きましたが」
「えっ? だっ、大丈夫ですよ。だってほら、何とも無いでしょ? 包帯だってしてるし」
 俺は両手を広げてみせる。スーツの破けた部分に例の女んら貰った包帯を巻いている。一目見ただけは無傷だとは分からないだろう。
 警官は眉をひそめていたが、俺の体を見て笑顔になった。
「そうですね。本当に良かったです」
「‥‥はい」
 俺は高鳴る鼓動を必至に抑えて返事を返した。脳裏に、相当危険だった、という言葉が残り、同時に吸血鬼という言葉が続く。
 吸血鬼って凄く丈夫で、傷なんてすぐに治るの。だから、あなたは助かったの。
「‥‥そんな馬鹿な」
「何か言いました?」
 医者が俺の顔を覗き見る。俺は慌てて笑顔を作る。
「いや、何でもないです。それれり、車の運転手の方は大丈夫なんですか?」
 潰れた車の運転席には誰もいない。が、血がべっとりとついていた。おそらく、運転手のものだろう。
「分かりません。出血多量で‥‥。頭も強く打ってますし」
「そうですか‥‥」
 俺は車を見つめながら言った。正直、自分がそうならなくて良かったと思った。
 ‥‥いや、本当はなっていたのかもれしない。でも、あの女に吸血鬼にされたから助かった。そんな空想を、一瞬本気で思ってしまった。
 野次馬の数が段々と減っていく。医者の男も腕時計を覗く。
「それじゃあ、元気そうなので私はこれで。お連れの方と一緒にお帰りください。何かあったら病院まで来て下さい」
「ちょっと待ってください。‥‥連れなんていましたっけ?」
「あなたの事を凄く心配してたお嬢さんがいましたよ。あっ、ほら、あの子ですよ」
 そう言って、医者は散っていく野次馬の中を指差した。そこにいたのは、品川絵美香(しながわ えみか)だった。絵美香は俺の存在に気づくと小走りでやってきた。
「先生! 大丈夫ですか?」
 記憶がはっきりしてくる。そうだ。俺はこの子と一緒に帰る途中だったのだ。
「品川か‥‥。心配かけたみたいだな」
「先生‥‥。本当に大丈夫ですか? どこも痛くないんですか?」
 絵美香は潤んだ瞳で俺を見つめ、包帯の巻かれた部分に手を添える。俺は自分の胸くらいにある絵美香の頭を撫でた。
「ほら、俺は大丈夫だ。夜も遅い。帰ろう。コンクールも近いんだしな」
「はい」
 絵美香がホッと小さなため息をつき、俺の手を取った。


 事故現場から数歩外に出ると、その喧騒は嘘のように無くなる。月明かりの下、俺と絵美香の足音だけが聞こえる。時間は午後九時半。
「本当に無事で良かったです。凄く心配しました」
「すまない。心配かけたみたいだな。でも、お前じゃなくて良かったよ。指に怪我でもしたら、コンクールに行けなかったからな」
「先生でも大事(おおごと)ですよ。ずっと神様に祈ってたんですから」
 品川絵美香。高校3年生。俺が教鞭を振るう高校の生徒で、類稀なるピアノの演奏者。一週間後にピアノコンクールに出る事になっている。大人しい、物静か、と言った感じの女の子で、それを体現するかのような美しく長い黒髪、小動物のような瞳が印象的だ。
「でも、あのお医者さん。凄いんですね。こんなにすぐに治してくれるなんて」
「‥‥品川。お前、あの女の事、知ってるのか?」
「詳しくは何も。でも、先生が車と接触して倒れた時に、私が治してあげるって言って、近くのビルにまで運んで行ったんです」
「他に何か言ってたか?」
「お医者さんなんですかって聞いたら、そんなもんよって言ってました。あと、ビルに運ぶ時に私もお手伝いさせてくださいって言ったら、素人は何もしないでって言われちゃいました」
「‥‥そうか」
 つまり、具体的にあの女が自分に何をしたのか、それを見ていた者は誰もいなかったという事だ。結局は、何も分からず仕舞い。
 複雑な気持ちの俺など知らず、絵美香が花のような笑顔を向ける。
「でも、そんなに元気なら明日も一緒に練習できますよね」
 素直な子だ、と思う。この子の前で不安な顔を見せてはいけない。俺は彼女に負けないくらいの笑顔で答える。
「勿論だよ。もっとも、もう俺がいなくても品川は大丈夫だと思うけどな」
「そんな事無いです。その、支えがあると安心できるんです。ずっと一緒にいてください」
 絵美香は俺の手をとる。少し、頬が紅潮していた。
「‥‥」
 彼女は一人っ子だ。だからかは分からないが、初めてピアノの練習を見た時から、俺に厚い信頼を寄せてくれた。コンクールが近づき、夜遅くまで練習をする事になった時、帰りを送っていこうかと言ったらすぐに頷いてくれた。
 そんな彼女が自分に対してどんな気持ちを抱いているのか、いつの頃からか分かるようになった。
「品川‥‥。そう言ってくれるのは嬉しい。けど、それだけだからな」
「‥‥」
 絵美香は何も答えない。放課後2人で練習をすると言った時も、彼女は嫌な顔1つしなかった。それを嬉々として受け取ってさえいた。きっとそれは、たくさん練習できる、と言うような思いからではなかっただろう。でもだからと言って、教師である自分が生徒とそんな関係になれるはずがない。
「安心しろ。ちゃんと見届けるさ」
「‥‥それだけでも、嬉しいです」
 絵美香は少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔になって答えた。
 2人の前にT字路が立つ。
「じゃあ、また学校で」
「ああっ、ゆっくり休むんだぞ」
「先生こそ」
 俺は絵美香に手を振り、自分のマンションのある道を歩き出した。絵美香も、ゆっくりと自分の家へと向かい始めた。


 あるマンションの一室。ベッドと僅かな電化製品、そしていくつかの音楽の本だけがある、質素な部屋。俺の部屋だ。
 俺は家に着くと、上着を脱いで、ベッドに倒れこんだ。
「‥‥色々な事があったな」
 自分自身に言う。様々な光景が、瞼の裏を流れていく。全部夢のように感じる。事故に遭った事、吸血鬼だと言われた事、全てが泡のように目を閉じると消えてしまう。残るのは絵美香の笑顔だけ。ついさっきの絵美香との会話だけがリアルに感じられた。
「もう、寝よう」
 時間は午後11時。寝るにはまだ早いが、色々な事があって疲れてしまった。俺はゆっくりと起き上がり、包帯を解いた。勿論、そこに傷などは無かった。
「‥‥」
少し乱暴に首を振り、台所に向かって水を一杯飲んだ。あまり、味がしなかった。
 その後俺はすぐにベッドに横になり、そのまま眠ってしまった。何だか、体がひどく重いように思えた。


 朝日で目が覚めた。ゆっくりと起き上がる。寝る前と何も変わっていない。
 それはそうだよな、と思いながら時間を確認する。午前七時。学校に行くにはまだ時間がある。俺はテレビをつけ、朝食の準備をした。
 朝はあまり食べ物が喉を通らない。味噌汁と白米がせいぜいだ。俺は鍋で湯を沸かし、味噌汁の元を入れ、ごく簡単な朝食を用意した。
 部屋に戻り、テレビを見る。昨日の交通事故の話はやっていなかった。あんな小さな事件、わざわざ取り上げる必要も無いのだろう。そう思いながら、味噌汁を口にした。
「!」
 思わず、吐き出してしまった。非常に苦い。まるで砂か何かを口にしているような感じだった。
「なっ‥‥何だよ」
 わけが分からない。もう一口飲む。やはり苦い。苦くてとても飲み込めない。舌がおかしくなってしまったのだろうか。白米も口にする。こちらも苦くて飲み込めなかった。
 使った水が悪かったのだろうか? 俺はキッチンに行き、水を飲んでみる。まったく味がしない。水なのだから無味は当然だ。つまり、水に問題は無い。だが、味噌汁も白米も苦くて、まったく食べられなかった。
 結局、何も口にできなかった。昨日までは何の異常も無かった。その時ふと、あの女の言葉が思い出された。
 あなた、吸血鬼なのよ。
「‥‥まさかな」
 俺は頭を振り、忘れる事にした。


 空は快晴だ。その空の下、俺は学校へ続く道を1人歩いていた。俺の学校は校門前に一直線の桜並木が並んでいる。その下をくぐる生徒達の姿は、美しい。
「先生、おはようございます」
「ああっ、おはよう」
 過ぎ行く生徒達が、挨拶をしてくる。みんな笑顔だ。何気ない朝の風景。昨日と何も変わらない。だが、俺はどうしても落ち着いた気分になれないでいた。
 体の奥が重い。鉛か何かを飲み込んだような感じだ。気分もひどく悪い。足取りもよくない。これは朝食をとってないからではない。
 一体何なのだろう、この感じは。考えると嫌でもあの女の言葉が頭に浮かんでくる。
「先生、おはようございます」
 絵美香が後ろからやってきた。昨日と何も変わらない笑顔だ。
「ああっ、おはよう」
「先生、昨日の怪我は大丈夫ですか?」
「問題無いよ。あったら、今日は休んでいるさ」
 俺は言った。怪我は問題無い。だが、気分は悪い。でも、それが昨日と関係あるかは分からない。絵美香は少し複雑な顔をしながらも、俺の隣を歩いた。
 過ぎ行く生徒達が含み笑いをしながら通り過ぎていく。絵美香ははにかんだ笑顔を見せる。俺は小さなため息をつく。
「品川。みんなが見てるぞ」
「いいんです、別に」
「‥‥」
 本来ならよくないのだが、今はこの雰囲気は心地良かった。僅かだが、気持ちが和らいだような気がした。


次のページへ    ジャンルへ戻る