授業は問題無く進んだ。正確に言えば、問題無く進ませた。誰かに余計な心配をされるのも嫌だったし、自分自身でもこの気分の悪さは説明できなかった。
昼食はとらず、保健室で胃薬を貰って飲んだ。もしかしたら単純な体の不調かしれない。そう思いながら午後の授業もこなした。そして、放課後になった。
結局放課後になっても、重苦しい体調は相変わらずだった。だが、このまま帰るわけにもいかない。音楽の先生として、絵美香の練習を見なければならない。
放課後、俺は音楽室に行った。そこには既に絵美香が待っていた。
「先生。練習しましょう」
「ああっ」
音楽室は1クラス分の生徒が入れる程度の小さな部屋。いくつかの椅子と、部屋の隅にある無数の楽器。部屋の前には黒板と、1台のピアノ。
絵美香はピアノの前に腰掛けて、俺を待っている。俺はゆっくりと絵美香の隣につく。
「それじゃあ、ショパンとラフマニノフ、どちらをコンクールで使う?」
「ショパンがいいです。ラフマニノフはメロディが好きじゃなくて‥‥」
「そうか。なら、ショパンで行こう。曲は子犬のワルツでいいかい?」
「はい」
そう答え、絵美香はピアノを弾き始める。丁寧ながらも、美しく流れるメロディ。絵美香には類稀なる才能がある。きっと、このまま行けば世界屈指のピアニストになれるだろう。今、その芽を潰すわけには行かない。俺の体調など、この際どうでもいい。
俺はじっと絵美香の横顔を見つめる。澄んだ瞳に、なびく黒髪。ピアノの腕だけではなく、その美貌でも、きっと彼女は世界を賑わせてくれるだろう。
その瞬間だった。俺の心臓が激しく高鳴った。悪い気分が吹き飛ぶ。そして、やってきたのは、強烈な欲望だった。
「‥‥うっ」
「先生? どうしたんですか?」
絵美香が演奏を止めて、俺を見る。俺は今、自分がどんな顔をしていたのか、よく分からなかった。
「‥‥俺、何か変な顔してたか?」
「はい‥‥。何だか、凄く怖い顔してました」
「‥‥」
じっと俺を見る絵美香。その顔を見つめる度に、俺の心臓は高鳴った。それは恋などいう甘いモノではない。それは肉体そのものを欲しがるような、獰猛な欲望。
俺は一歩後ろに下がる。絵美香は立ち上がり、その手を取る。その途端、その欲望がブチンッと音を立てたような気がした。
「あっ」
俺は絵美香を抱きしめた。絵美香が驚いた声をあげる。
「せっ、先生?」
絵美香が俺を見る。まだ穢れを知らない、無垢な顔と体。だが、俺はそんな絵美香に口付けたい気分ではなかった。その真っ白い首に歯を立てたい気分だった。
「‥‥」
「‥‥どうしたんですか?」
絵美香の頬に一滴の汗が落ちる。俺の汗だった。俺はいつの間にか汗をかいていた。それも、大量の。
俺はゆっくりと絵美香から離れると、床に倒れた。汗と同時に、大量の息継ぎ。全力疾走をした後のような疲れがあった。一体自分がどうなってしまったのか、まったく分からなかった。
たた、あの女の言葉がはっきりと思い出されていた。
‥‥俺は、人間じゃないのか?
「大丈夫ですか? 先生」
絵美香が寄ってくる。俺はそれを手で制した。
「来ないでくれ。来たら‥‥何をするか、分からない」
言うと、絵美香は足を止めた。本当だった。何をするか分からない。犯してしまうかもしれない。更に、殺してしまうかもしれない。そんな事を、本気で思った。
絵美香はそれでも、心配そうな顔で俺を見ている。
「先生。やっぱり昨日の事故で怪我したんですか?」
「分からない。分からないんだ。とにかく、今日の練習はもうおしまいだ」
本当に分からない。泣き叫びたい気持ちだった。一体自分に何が起こったんだ? と。とにかく今は1人になりたかった。
絵美香が俯き、小さく答える。
「はい。でも、一緒に帰りましょう。途中で倒れたりとかしたら危険ですから」
もっともな意見だった。だが、この正体不明の衝動は絵美香を見ていた時に起こった。もしかしたら、彼女が一番危険かもしれない。
「ダメだ。今の俺は何をしてしまうか分からない。お前を‥‥傷つけてしまうかもしれない」
「でも‥‥何も知らない人を傷つけるよりはいいですよ」
「‥‥」
何故そんな事が平然と言えてしまうのか。単純に俺に対する恋心なのか。分からない。だが、彼女の言う事は正しい。この衝動もたまたまかもしれない。‥‥そうであってほしかった。
「分かった。一緒に帰ろう。途中で何かあったのら頼む」
「はい」
そう言うと、絵美香は倒れた俺に手を差し伸べた。
絵美香と2人で昇降口を出る。時間は午後の6時を回っていて、帰る生徒の数も疎らだ。今日は変な噂を立てられずに済みそうだ、と少しだけ思った。
が、出た瞬間、思いもよらない人物と出会った。
「久しぶり。お元気‥‥じゃなさそうね」
昨日のあの女だった。
「お前‥‥どうしてここに?」
「そりゃ、後付いていけば分かるわよ。まだ、我慢してるのね、偉い偉い」
女は飄々とした態度で拍手した。それがあまりにも白々しく見えて、俺ははらわたが煮え繰り返るような思いだった。
「おい。説明しろ。これは一体何なんだ? 俺はどうなったんだ?」
「説明してもいいけど、隣の女の子にも言っていいの?」
女は絵美香を見る。絵美香はわけが分からない、とでも言いだけな顔をしていた。俺は1つ小さなため息をつき、
「品川。1人で帰るんだ」
「えっ? でも‥‥」
渋る絵美香。俺はそんな絵美香の肩を軽く叩いた。
「俺は今からこの女の人と大事な話がある。それはお前には何の関係も無い。帰るんだ」
「‥‥」
絵美香は何も言わない。すぐに頷いてくれるとは思えなかった。女はケラケラと笑う。
「大変ね。教え子に惚れられると」
「お前は黙ってろ」
「はいはい」
女を無視して、俺は絵美香を見る。絵美香は気丈な目で俺を見ていた。
「嫌です。私、先生の事、好きですから」
はっきりと言われた。だが、そんな事は前々から分かっていた事だ。俺は絵美香の肩を撫でる。
「品川。わがまま言うな。それに、先生と生徒は恋仲にはなれないよ」
「恋仲とか、そういうのはどうでもいいんです。ただ、私は先生が心配なだけで‥‥。だから、先生に何が起こったのか知りたいんです」
そこまで言うと、絵美香は女を見た。力強い目だった。
「私にも教えてください」
「いいわよ。でも、ショック死しても知らないからね」
女はあっさりとそう答えた。
場所は昨日の廃墟ビルだ。まだ工事が始まっていないらしく、更に夜の為、人の姿は無い。
「血‥‥を飲まないと生きていられないのか?」
「そうよ。だって、吸血鬼ってそういうものでしょ? でも、太陽の光なんて関係無いし、見た目も変わらないけどね」
ミヤと名乗った女はそう言った。俺は自分の耳が信じられなかった。それは絵美香もだった。
呆然とする2人を尻目に、ミヤは続ける。
「何もせずにいたら、きっと半年ともたないでしょうね。でも、血さえ飲んでいれば、100年くらいは生きていられるわよ」
「‥‥何で、俺にそんな事をした?」
「だってあなた、瀕死だったのよ。そうしないと、今ごろ死んでたわ」
「だからって、吸血鬼にしなくてもよかっただろ!」
俺はありったけの憎しみを込めて叫んだ。何も知らないまま、吸血鬼になっていた。そんな事、許せるはずがない。だが、ミヤは相変わらずの顔で笑った。
「なら、死んでも良かったの? その女の子、近い内にコンクールがあるって話じゃない? その結果を知らずに死んだら、未練でしょ?」
「‥‥お前、何でそんなに知ってるんだ?」
「だって、暇なんだもん」
「お前、一体何者なんだよ?」
「私? 吸血鬼よ。生まれたのは大正時代だけどね」
にわかに信じられない事だった。大正生まれなら、もうとっくに死んでいてもおかしくないはずだ。なのにこいつはまだ30くらいの体で平然としている。
俺が黙っていると、絵美香が強い口調で言った。
「嘘つかないでください。大正時代生まれの人が、そんなに若いはずありません」
「吸血鬼っていうのはね、見た目は年をとらないのよ」
「そんなの‥‥信じられるわけないじゃないですか」
「信じて真実が嘘になる程、世の中甘くないわよ。それに、あなたの大好きな先生のあの行動、説明できる? いつもは冷静な先生が突然あなたを抱きしめた」
「‥‥」
絵美香は唇を噛んだ。俺は絵美香を見る。体の奥底から、得体の知れない欲望が沸々と沸いてくる。それで確信した。彼女を犯したいわけではなかった。血が、欲しかったと。
話が一区切りつき、ミヤは俺の頬を撫でる。
「あなたのその渇きを癒す方法は2つ。1つは血を飲む事よ。それも、輸血の血みたいな冷蔵庫で冷やしたやつじゃなくて、流れ出たばっかりのやつね。そこのお嬢さんの血なんて、美味しそうじゃない」
「‥‥」
俺は懸命にその欲望を堪え、ミヤを見る。
「それで、もう1つは何だ?」
「吸血鬼に噛まれる事よ。つまり、2回目って事ね。そうすると、噛まれた方は噛んだ吸血鬼の奴隷になってしまうの。そうすると、血を飲まなくても生きていけるわ」
「なら、もう一度俺を噛んでくれ」
「話を最後まで聞きなさい。噛んだ方は、その分多くの血が必要になるの」
「‥‥なら、ほとんど同じじゃないか」
「そうね。必要になる血の量は、結果的にあまり変わらないかも。ちなみに私は嫌よ。今でも結構大変なんだから」
「‥‥」
俺は愕然とする。どちらにしても、血は必要だ。つまり、人を傷つけない生きていけない。
目の前が真っ暗になったような気がした。何だ、この運命は。こんな事があっていいのか? 今まで普通の人間として生きてきた自分が、いきなり吸血鬼だと言われた。そして、人の生き血を吸わないと長く生きられないとまで。‥‥こんな非情な運命なんて。
絵美香が複雑な顔で俺の肩を撫でる。
「先生‥‥」
俺は何も答えない。もう、普通の生活なんて出来ない。教師だって、続けられない。俺は俯きながら答える。
「品川‥‥。俺はもう学校に行かない。お前の前にも姿を現さない。1人で頑張ってコンクールに行くんだ。お前にはまだ、輝かしい未来がある」
「そんな‥‥」
「それ以外にどうしろって言うんだ!」
俺は絶叫した。絵美香はビクッと体を突っ張らせる。それから、脱力して、無言になった。俺は小さな声で、すまない、と呟いた。
それ以外に方法なんて無い。この後どうするかなんて、まだ何も考えていないが、きっと野良犬の血を吸って生きるか、このまま何もせず半年で死ぬかの、どちらかしかないだろう。
「悩んでるの? 関係無い人の血を吸って生き延びるって方法があるわよ。それで、そのお嬢ちゃんの成長を見届けて、後100年したら眠る。それでいいんじゃないの?」
ミヤがからかうように言う。俺は彼女を鋭く睨みつける。
「関係無い人‥‥だと? 俺に人殺しをしろって言うのか! そんな事、出来るわけないじゃないか!」
「だったら、大人しく死ぬのね。私は、今までそうやって生きてきたのに」
「お前は鬼畜だ」
「それで結構。人間だって似たようなものよ」
ミヤは突き放すように言った。だが、当然俺はそんな彼女の言葉に頷けなかった。
帰り。俺は絵美香は少し距離を置いて歩いていた。彼女が傍にいたら、何をしでかすか分からない。襲う可能性だってある。それも、手加減無しに。ずっと堪えているが、本当は血が欲しくてたまらない。まるで1日何も飲んでいないような渇きが、ずっと続いている。
「先生‥‥本当に、学校には来ないんですか?」
「あそこには血がたくさんある。行けないよ」
「じゃあ、私1人で練習するんですか?」
「そうだ。今のお前の実力なら優勝する事だってできる。もう、俺の力は必要無い」
「‥‥」
絵美香は黙ってしまった。俺も、彼女にかける言葉が見つからなかった。
突然訪れた、理解不能の出来事。自分の中でそれを整理するのにはまだ時間がかかりそうだった。だが、はっきりと言えるのは、もう絵美香の相手をする事は出来ないという事だ。
夜道が続く。もう俺のマンションも見えてきた。ここまで、誰とも出会わなかったのは嬉しかった。
「先生‥‥今日、先生の家に泊まっていいですか?」
その時、絵美香が俺の背中に言った。俺は立ち止まってしまった。そして振り向く。
「何言ってるんだ、お前は。あの女の言葉を聞いただろ? 俺はもう吸血鬼なんだ。血が欲しくてたまらないんだ。一緒にいたら‥‥無事では済まない」
「いいんです。私、先生になら何されても‥‥」
「品川‥‥。お前の気持ちは嬉しい。でも、お前にまで迷惑をかけるわけにはいかない。‥‥お前まで、吸血鬼にしてしまうかもしれない」
俺は一言一言ゆっくりと言う。何故俺なんかに好意を抱いたのかは分からない。でも、それに答える気は最初から無かったし、今となってはその気が変わっても何もできない。
それでも、絵美香は言った。
「いいです。先生となら。私、家でもずっと一人ぼっちで。だから、先生と一緒にいられる時間は凄く楽しくて‥‥。できるなら、これからもずっと‥‥」
「品川! いい加減目を覚ませ。それがどういう意味か分からないわけじゃないだろう? そうなったら、2人して人を殺し続けなくちゃならない。俺は嫌だ。人を殺してまで、生きたくない‥‥」
「‥‥」
「さようならだ。頑張れよ」
絵美香を見ずに俺はそう言って、自宅への道を1人で歩いた。本当は心細い。傍にいて欲しい。1人でいたら、寂しくてどうしようもない。でも、できないのだ。その人を不幸にしてしまうから。
絵美香は後を追ってこなかった。