その夜は一睡もできなかった。これからどうしようとか、今までの28年間の人生を振り返っていた。
「‥‥」
死ぬ事が怖くないと言えば嘘になる。だが、いつかは誰もが死ぬ。その事に、怯えは無い。でも、それまでにやっておきたい事がいくつもあった。結婚して子供が欲しかった。それに、絵美香の未来も見ておきたかった。それが出来ない事は、悔しかった。
「まだ、悩んでいるの?」
その時、ベランダから声がした。俺は起き上がり、カーテンを開ける。ミヤが笑顔で立っていた。
「お前、どうやってここに‥‥」
「吸血鬼っていうのはね、歳を重ねると色んな事ができるようになるのよ。入っていい?」
「‥‥好きにしろ」
俺はミヤを部屋の中に入れた。ミヤは風のようにフワリとベッドに腰掛けた。
「どう? 気持ちの整理はついた?」
「ああっ、誰も傷つけない。そして、俺は死ぬ」
「そう。あなたで30人目だわ、そう言ったのは」
「今までそんなに吸血鬼にしてきたのか?」
「ええっ。中にはまだ生きてる人もいるけどね」
「彼らは人を?」
「そういう時もあるけど、最近は警察の厳しいのよ。だから、野良犬とかの血を吸ったりしてるわ」
「‥‥そうまでして、生きたいのか?」
「そうね‥‥。人間って欲深いから。誰もがあなたみたいに達観できるわけじゃないのよ」
ミヤは自虐的に笑った。俺は何も言わなかった。達観しているわけではない。ただ、諦めただけだ。
「あんたは、どうやって吸血鬼に?」
「夫が吸血鬼だったのよ。私は夫を愛してたから、一緒に生きようって言って吸血鬼になる事にしたの。でも、夫は私が生まれるずっと前に吸血鬼になってたから、私より早く死んじゃったわ」
淡々と語るミヤ。俺はミヤの横顔をじっと見つめていた。話を聞いたからと言って、俺の意見が変わるわけでもなかった。ただ、一度聞いてみたかっただけだった。
「あんたは、これからも人を殺して生き続けるつもりか?」
「ええっ。この時代に私の知っている人は1人もいない。誰を殺しても罪悪感は無いわ」
「人を、殺すんだぞ」
「人間だって、家畜を殺して生きてるじゃない。同じ事よ」
ミヤはそれだけ言うと、立ち上がった。
「私はもう帰るわ。説得のつもりで来たんだけど、無駄みたいね。それじゃあ、残った人生、ゆっくりと楽しみなさい。そうね。あの女の子ならきっと、最期まであなたを見てくれるんじゃないの?」
「俺はもう誰とも会わないと誓ったんだ。会った瞬間、襲いそうだからな」
「あの子、それを望んでたじゃない」
「俺は望んでない」
「そう‥‥。頑固者」
「‥‥実はね」
俺が苦笑しながら答えると、ミヤは来た窓から出て行き、そのままバッと地面に落ちた。俺がベランダから下を覗くと、そこには平然と歩いているミヤの姿があった。
「今更、会えるわけないだろ」
また1人になった俺は、部屋に戻った。テレビをつけ、冷蔵庫からビールを持ってくる。それから、もうこれは飲めないんだ、という事に気づいた。
次の日、俺は学校に休みの電話を入れた。しばらくしたら、辞職届けを出そうと思っていた。
自分の部屋で流れていく雲を見つめる。今までこんなにゆっくりと空を見つめる事なんて無かった。今まで、何も考えずに働いてきた。それが、今になって突然崩れた。でも、1日経って不思議と後悔のようなものは消えていた。血への欲望は相変わらずだが、周りに誰もいないと気分も和らいだ。
このまま静かに眠るのも悪くないな、と思うようになっていた。
「まっ、人間いつかは死ぬんだ。こんな形でもいいか」
返事が返ってくる事も無く、俺の言葉は宙を漂った。
その時、ベルが鳴った。俺は無視する。誰であろうとどうでも良かった。もう、関係無いのだから。
だが、そのベルはいつまでも鳴り響く。マンションのオーナーか誰かだろうか。仕方なく、俺はゆっくりと立ち上がってドアを開いた。
「‥‥あっ」
そこにいたのは絵美香だった。いつも通りセーラー服を着ている。その出で立ちは高校には行かずに、直接ここに来た、という感じだった。
「先生。お腹、空いてませんか?」
絵美香は笑顔で言った。
「品川‥‥。お前、何しに来たんだ?」
「先生の顔を見に来ました」
「‥‥学校は?」
「休みました」
絵美香は淡々と笑顔で語る。そこに、怯えのようなものは一切感じられない。ただ、何かを悟ったような女がいた。
だが、絵美香を見た瞬間、抑えていた血の欲望が沸々と甦ってくる。俺は自分の胸ぐらをグッと掴む。
「品川‥‥。昨日の事は夢なんかじゃないんだ。大人しく帰れ」
「嫌です。このままだったら、先生死んじゃいます。私、それを黙って見ていたくありません」
「じゃあ、どうしろって言うんだ? 俺に人殺しをしろって言うのか?」
「‥‥入っていいですか?」
絵美香は俺の問いには答えず、そう言った。
途中で買ってきたと思われるポテトチップスをテーブルに広げる絵美香。まるで場違いな雰囲気だった。
「この時間にやってる番組、私知らないんですよね」
テレビのスイッチをつける絵美香。いつもの絵美香とは少し雰囲気が違う。
俺はソファに腰掛ける。
「一体、何をするつもりなんだ?」
そう聞くと、絵美香の動きがピタリと止まり、それから俯き、ゆっくりと言う。
「‥‥私も、一緒に死にたいです」
俺の顔を見ずに、絵美香は言い放った。俺は一瞬、自分の耳が信じられなかった。黙っていると、絵美香は更に続ける。
「俺なんかの為にって、言いたいんですか? 私にとっては、世界で唯一信頼できる人です」
そこまで言うと、絵美香は俺に抱きついてきた。鼻をかすめるシャンプーの香り、体に伝わる絵美香の肌の温もり。血の欲望が、加速していく。
俺は歯を食いしばり、ゆっくりと絵美香が引き離す。
「品川‥‥。人生は1つだ。お前にはまだ、やれる事がたくさんある。恋愛だって、これからたくさんできる」
「先生との恋愛は、1回です」
ガンとして意見を曲げない絵美香。俺は頭を掻く。絵美香に何があったかは知らない。が、テコでも動く気配は無さそうだった。女子高生と言えども、女はやっぱり女だな、と思う。
「睡眠薬でも飲むつもりか?」
「それが一番なら、それでもいいです」
「お前が死なない方法は、何がある?」
「先生が死なない事です。私、はっきりと言います。プライドなんか無くてもいいです。野良犬とかの血でも吸って生きればいいじゃないですか。生きていなくっちゃ味わえない事、あるはずです。1人が嫌なら、私も吸血鬼にしてください」
絵美香は涙目になって語る。きつい言い方だ。俺に、毎晩野良犬を探してその血を吸えと言う。絵美香は俺が生きてさえいればいいのだ。
「‥‥本当に困った子だな」
「そういう生徒の方が、ずっと覚えてるものですよ」
クスリと笑う絵美香。この子がこんな顔で冗談を言うなど、今まで無かった。気丈な態度といい、女っていうのはたくさんの顔がある。どれが本物なのか、分からない。
絵美香はそれから、ゆっくりと手を出す。
「一緒に生きましょう、先生。それが嫌なら一緒に死ぬか、私も吸血鬼にしてください」
「‥‥」
今まで何人かの女性と付き合ってきた。でも、こんな事を平然と言う女は初めてだった。状況が状況だからなのかもしれないが、それでも、今の言葉は心に響いた。
こんな女の子に説得されるなんて、何だか子供みたいだ。俺は絵美香の手を取った。自然と血の欲望は沸騰しなかった。
「分かったよ。自暴自棄になるのはやめる。でも、俺はこれからも絶対に血は吸わない。勿論、お前も吸血鬼にしない。吸わずに、生きれるところまで生きてみる。それじゃあ、ダメか?」
見出したただ1つの結論。これ以外には何も思い浮かばない。俺は人間である事をやめたくない。誰に言われようともだ。
絵美香は俺の手を強く強く握り締めたまま、俯く。
「犬や猫でも、ダメなんですか?」
「雨の中震えてる子猫や犬を、品川は殺せるのか?」
「‥‥できません」
「そうだろ? 無残に殺したらさ、それってあまりにも鬼畜だよ。だから、俺は絶対に血を吸わない。分かってくれ」
まるで自分自身に言い聞かせるように言って、そして絵美香を抱きしめる。血の欲望を必至に押し殺し。
自分1人で悩めばよかったと、後悔してる。この子はきっと、俺が死んだその後もずっと苦しむだろう。そんな傷を負わせてしまった自分が、憎くて仕方なかった。
でも、それと同時に、最期のその時まで付き合ってくれようとする彼女に感謝もしていた。真実を知ったのがこの子で良かった、と思っていた。
絵美香は俺の胸に顔を埋める。
「‥‥分かりました。先生の人生ですものね。私もこれ以上言いません。でも、コンクールだけは見てください。私の晴れ舞台ですから」
「ああっ、それまでは練習にも付き合う」
俺はホッとため息をつき、もう少しだけ強く絵美香を抱きしめた。
「先生。もう、ご飯とか食べられないんですか?」
「ああっ、何も食べられない」
「そうですか‥‥。一度くらい、ご飯食べてほしかったです」
絵美香は残念そうに言って、俺の頬に口付けをしてくれた。
次の日から、俺はいつも通の学校に行っていつも通りの授業をする事にした。生徒達を見ていると嫌でも血の渇望が沸いてくる。その渇きはどんどん膨らんでいっている。俺は人目につかない所で、体を掻き毟り、その渇望に耐えた。傷はすぐに消えてしまう為、誰かにバレる事も無かった。
放課後は必ず絵美香との練習に励んだ。絵美香のピアノの旋律は美しく、見事だった。そこに、彼女の心の揺らぎは無い。俺に見せる為というその心意気が、そうさせているのだろう。
「先生。どうですか?」
「完璧だよ。もう、何も教える事なんて無い。後はただ、感情を映すように弾くだけで、きっとお前は優勝できるよ」
「はい」
絵美香は俺を見上げながら言う。あの時よりも笑顔が増えたような気がする。納得してくれたからだろうか。何にしろ、嬉しかった。もう、悲しい顔を見なくていい。
「先生。渇きは、大丈夫ですか?」
「苦しいが、何とか耐えてるよ。俺にはまだ、やりたい事があるんだ」
「‥‥はい」
絵美香は少し残念な顔になりるが、またすぐに笑顔になりピアノを弾き始めた。僅かだけ、ピアノの旋律が歪んだ。
やっぱりまだ、決心がついていないのだろう。仕方ない。でも、これでいい。こうやって少しずつ、変わっていけばいい。
一週間後、コンクールの日がやってきた。コンクールは近くの公民館で行われた。
公民館の控え室で俺はスーツ姿で立っていた。少しやつれていた。それはそうだ。この一週間、何も食べてないのだ。だが吸血鬼になった為か、動けない程ではなかった。
代わりに、血への欲求はどんどん膨らんでいった。
「先生。体は、まだ動きますか?」
隣で、絵美香が言った。ピンク色の美しいドレスを着ている。彼女らしい、可憐さが匂っていた。隙間から僅かに覗く胸元を見ていると、血の欲望を性欲と勘違いしてしまいそうだ。
「ああっ、まだ大丈夫だ」
周りには他にも生徒達がいた。生徒達は皆、美しい衣装に身を包み、それを見守る先生達も神妙な顔つきだった。
渇きはより激しくなってきている。もう、後僅かの時間も無いような気がする。ミヤは半年程度で死ぬと言っていた。だが、そんなにもつのかどうか疑問だった。体自体は大丈夫でも、渇きに関しては正直、限界に近かった。
そんな俺の手を絵美香が優しく握ってくれる。暖かい手。嬉しいが、ゆっくりと放す。彼女の優しさは、俺にとっては拷問なのだ。
その時、1人の男が控え室にやってきた。
「品川絵美香さん。出番です。式野さんもどうぞ。ステージ裏まで案内します」
観客席には、たくさんの人が来ていた。保護者もいれば、音楽界の人もいる。俺と絵美香はそれをステージの脇から見つめていた。
「品川。頑張れよ」
「はい」
絵美香はそう言って、俺の頬に口付けてくれる。まるで首を噛んでくれと言わんばかりに。俺はゆっくりと絵美香を遠ざける。だが、すぐにまた抱きついてくる。まるで子供の遊びのようだ。
「品川、もう始まるぞ」
「これが終わったら、先生どうなるか分からないじゃないですか。だから、最後にこうさせてください。別に、私は噛まれたっていいんです」
「‥‥」
俺は何も言わない。だが、絵美香の抱擁を拒もうとはしなかった。こみ上げてくる欲求は口元にまで出かかっている。俺は歯を食いしばった。奥歯がガチンと音を立てて砕けた。
この後、どうなるか分からない。しばらくは生きてるだろう。だが、精神が無事だという保証は無い。最後に記憶に焼き付けたい、という気持ちは俺も変わらなかった。
「でも先生。本当によく耐えますね。苦しいはずなのに」
「苦しいさ‥‥。でも、俺は誰かを傷つけてまで人間でいたくないんだ」
「でも、私の気持ちは傷つけてるじゃないですか」
そう言った瞬間、俺の首に痛みが走った。
「‥‥えっ?」
血を吸われている。そう気づいた時には、もう遅かった。
全身を駆け巡る血。それが首から失われていく。それと同時に、今まで苦しんできた欲望も吸い取られていった。
「品川‥‥?」
俺はぼやけた目で絵美香を見た。ゆっくりと口を離す絵美香。彼女はいつもの笑顔だった。
「今まで騙していて、すいません。でもこれで、先生は私の物です」
唯一光に溢れているステージの上で、絵美香は瞳を閉じ、演奏に夢中になっている。その演奏は俺が指摘した感情の部分さえも、完璧だった。観客は皆、彼女のメロディーの虜になっていた。
俺の隣にはミヤがいる。ミヤは嬉しそうに絵美香の姿を見つめていた。
「‥‥全部説明してくれ。絵美香の事」
俺はミヤに訊ねる。渇きは嘘のように無くなっていた。そう。絵美香に血を吸われた事によって、俺は絵美香の奴隷となった。だから、もう血を渇望する欲は無い。
ミヤは絵美香の演奏を聞きながら、話す。
「我慢できなかったのよ。本当はあなたが噛むのを待ってた。でも、あなたはテコでも噛もうとしなかった。だから、仕方なく彼女が噛んだ」
「彼女も吸血鬼だったのか?」
「そう。言ったでしょ? まだ生きてる人がいるって」
「‥‥」
それが彼女だったと何故言わなかった? という質問はしない事にした。聞かなくても分かっていた。
ミヤは続ける。
「車の事故、覚えてる? あの時あなたを噛んだのは私じゃなくてあの子なの」
ピアノの旋律とミヤの言葉だけが聞こえる。他は何も聞こえない。
「あの子、昔は病弱でいつも入退院を繰り返したの。そこで私がほんの遊びで彼女を吸血鬼にしてあげた。最初は戸惑ってたけど、すぐに喜んでくれたわ。そして、学校に行き始め、あなたと出会って恋に落ちた」
「それで?」
「告白したかったけど、吸血鬼なんて話、誰も信じない。だから、あなたも吸血鬼にしてしまおうと考えた。同じ吸血鬼同士なら、仲良くやれるんじゃないかってね」
「‥‥乱暴だな。俺の意見はどうでもいいのか?」
「女って一途になるとそういうものよ。で、運良く起こったあの事故を利用して、あなたはめでたく吸血鬼。あなたは吸血鬼として生きる事を決め、彼女は想いを告白し、舞台の幕は降りる予定だった。でも、あなたは吸血鬼として生きる事を拒んだ」
ピアノのメロディは奏でられる。館内は静かで、ただ瞳を閉じて酔いしれる絵美香だけが輝いている。
そんな絵美香の目が開いた。そして、俺を見た。期待に満ちた淫靡で美しい瞳だった。あんな顔ができるななんて、初めて知った。
ミヤは含み笑いをする。
「私も彼女も懸命に説得した。けど、あなたは答えなかった。そこで、彼女は考えた。ならば奴隷にしてしまおう、と」
「‥‥1つ聞いていいか? 何故彼女はすぐに噛まなかったんだ? 彼女は今まで誰かの血を吸って生きてきたんだろ? だったら、さっさと俺を二回噛んで俺を奴隷にすれば良かった。彼女は他人を吸血鬼にするのに躊躇いなんて無かったんだから」
「彼女、奴隷の方になりたかったみたいよ。今まであなたが上の立場にいたから、その関係を保っていたかったんじゃないのかしら」
「‥‥複雑な気持ちだな。こっちとしては」
俺は苦笑を漏らす。彼女が噛んでもいいと言った理由がこれかと思う。でも、想いは変わらない。本当に複雑な気持ちだ。
「でもね、これだけははっきり言えるわ」
ミヤが笑う。ステージの上で絵美香も笑った。
「あの子はね、あなたが大好きなのよ。だから一緒にいたいと思った。それって、純愛よ。血よりも濃い、ね」
終わり
あとがき
この作品は去年の夏、ふと思いついた事から書いた作品で、個人的に思い入れはほとんどありません。今読むとこれ以上無いくらい普通なお話で、正直に言うとあまり好きではなかったりします。まあ、これと言って駄作だとも思いませんけど。読み返してみるまで主人公の名前や結末すら思い出せなかった程。
どうして書いたんだろう、俺。分かんないや。でも、ソツ無く書けた作品だと思います。