僕の上にはいつも同じ空があった 高校1年生編2


 相川七瀬の「恋心」が化粧品のCMでバンバン流れていた六月、僕は漫画を描いていた。別に化粧品に興味は無かった。
 中学の頃から僕は漫画家になりたいと思っていた。当時もう手塚治虫は死んでいて、大友克洋の『AKIRA』はとっくにビデオになっていた。『新世紀エヴァンゲリオン』が大ヒットしていて、本屋の隅の方ではそのパロディ本がたくさん置いてあった。中身を見てみたら、ヒロインの女の子が主人公の男の子に犯されている作品ばかりだった。
 別にそういうのが好きだったわけではなく、子供の頃から絵を描くのが好きで、中学の図書室に『火の鳥』や『ブラック・ジャック』が置いてあり、それを読んで涙を流して感動し、漫画家を志す事にしたのだ。
 僕は一度やり始めると長くやり続ける根気があった。テニスはたまたま僕に合わなかったのですぐにやめたが、漫画はずっと描き続けていた。作品は荒廃した未来を舞台にしたSFアクション漫画だった。
 子供の頃は皆世界が自分を中心に回っていると思っている。自分の思っている事は何でも実現できて、未来は太陽よりも眩しく輝いていると信じてやまない。
 勿論僕もそうだった。自分の作品が他人にどう思われようとも、自分の作品が世界で一番面白かった。僕の未来は黒沢明よりも光り輝いていた。
「何? 笹乃ってば漫画描いてるわけ?」
 佐野が物珍しそうに僕のノートに目を落として言う。僕は満面の笑みで答える。
「ああっ。将来漫画家になりたいんだよね」
「へえ、いいね、そういうの」
 佐野は大して興味も無さそうな感じでそう答えた。どうせ彼には僕の描く物語なんて理解できるはずがない。僕はすぐにノートに目を下ろし、また漫画を描き始めた。
 漫画が僕にとっての全てだった。他に当時の自分を表すモノは無い。個性を持てという大人の言葉を真に受けていたわけではなかったが、何か自分だけの物が欲しいとは思っていた。
 本来なら彼女とかそう言う物を欲しがるのだろうが、僕にはそれを手に入れる勇気が無かった。頭の中では数万人の女が僕の下半身に抱きついてくるのに、現実で抱きついてくるのは飼っていた愛犬のマルだけだった。
 逃げるなんて後ろめたい事を思った事は無かった。人には向き不向きがある。僕が得意だったのは女に下半身に抱きつかれる事ではなく、白い紙に己の理想を描く事だった。
 咲き誇っていた桜が散り、セミがうるさく鳴きだす夏までの一学期間。僕は好きな事をやって、それなりに友人と遊んで、勉強もちゃんとやって、それなりに幸せだった。当時はそれが「それなり」だった事も分からなかった。それが、僕の全世界だったからだ。
 でも、楽しい日々というのは絶対に終わる。いつか人が死ぬのと同じだ。案の定、その日々も唐突に終わってしまった。
 苛めだった。


 ただ暑いだけで他には何も無かった夏休みが過ぎ、うだるような残暑の中で二学期が始まった。
 それは一体どういう事がきっかけだったのか、はっきり覚えていない。ある日、突然僕はクラスメイトの古川から悪口を言われた。正確に言えば、あいつが言っているのを聞いた。
「何かムカつかねえ? あいつ。あのデブ」
 友人達との話の中で、古川はそんな事を言った。ペンを持つ手がピタリと止まった。背中に感じる視線は、粘っこくて一瞬で害のあるモノだと分かった。
(……きっとそれは僕の事だ)
 すぐに分かった。色白のアニメオタクのデブ。これほど苛めの標的になりやすい存在はいないだろう。
 古川はクラスでもひょうきん者として有名だった。他人の事なんて何とも思っていないどうしようもなく馬鹿な奴だったが、女の子とは仲良く話せて、世渡りがうまかった。洋服と靴とアプリコット味の食べ物が好きで、僕とは何もかもが反対の奴だった。
 数年後、あるテレビ番組で彼を見た事があった。貧乏な若者を紹介するテレビだったが、その時の奴の顔は高校の頃と何も変わらず、人生女とセックスして高いジーパンを履いていれば幸せです、というような顔をしていた。
 その日から、僕は毎日のように悪口を言われるようになった。
 かつあげや暴力みたいな肉体的な事をやられた事は一度も無かった。上履きの中はいつも何も入っていなかったし、鞄を隠された事も無かった。屋上から飛び降りろと言われた事も無かった。彼はひたすら悪口を連呼した。
 朝、彼は登校すると他の仲間と一緒に話を始める。
「あいつ、豚みたいだよな」
 わざと僕に聞こえるように言う。僕はお前は豚を食べてるんだろう、と馬鹿みたいな反論を頭の中だけで叫んだ。


「あういう奴をロリコンって言うんじゃねえ?」
「絶対童貞だぜ、あいつ」
「物理のあいつに似てるよな。つまんねえ髪型とか」
 暑さが過ぎても古川の悪口は続き、耐える日々が続いた。クラスの全員がその事を知っていたが、誰も助けてくれなかった。高田も松田も佐野も、何もしてくれなかった。もっとも、そんな漫画みたいな幸福な事が起きるなんて、僕自身期待していなかった。
 その間も、古川の百枚舌からは僕に対する罵倒の言葉が絶え間無く溢れ出た。
「何で俺らさ、ブタと一緒に授業受けなきゃなんないわ?」
「あいつ、アニメオタクなんだろ? 近づいたらその趣味が移りそうで恐いんだよね」
「よくあういう奴が世の中にいるよな。自分の顔分かって生きてんのかなぁ?」


 毎日毎日悪口を聞いていると、段々と慣れてきた。そうすると彼の悪口はいつも同じような事ばかり言ってると言う事に気づいた。キーワードはデブ、豚、重い、眼鏡、オタクの五つ。毎回無い頭を振り絞ってその単語をうまく組み合わせ、どういう言葉にすれば相手が一番傷つくのか考える。まるでパズルのようだと思った。うまく合わさると満足するという点でも似ていた。ただパズルと違った事は、そのどれも明確な答えなんてモノが無かった事と、成功すると傷つく人がいるという事だった。
 クラスの雰囲気は古川のせいで明らかに変わっていった。普段は別段変わりない。女の子達は楽しくお喋りに華を咲かせ、男の子達もふざけ合う。でも、古川が一言僕に対する悪口を言うと、教室内の空気は重く沈んだ。
 それに気づかなかったのは、古川ただ一人だった。
 僕と古川との確執は冷戦のアメリカとソ連並みに冷え切っていて、まともに顔を合わせて話す事は一回も無かった。核ミサイル以外に大して違いなんて無かった。喧嘩なんて事は無かったが、仲が悪いのは誰が見ても明らかだった。
 特に体育の授業は最悪だった。ある日、体育で柔道の試合をする事があった。男子全員で輪を作り、手合わせしてから一つずれてまたやる。それの繰り返しの授業だった。
 僕は絶対に古川とやりたくなかった。あんな奴と一緒にスポーツをしたくなかったし、彼とやればどんな目が遭うか分からない。どさくさにまぎれてぶん殴られるかもしれない、と恐れていた。
 だが時は非情なモノ。呆気なく僕と彼は戦う事になった。
 ジャージの上に白い柔道着を着て、向かい合う僕と古川。古川は間違いなく、ただの試合だとは思っていなかった。それは僕もだった。やりたくはなかった。 だが、やらなくてはいけなくなったその時、僕は古川をコナゴナにしてやろうと決めた。もしも殺してしまったとしても試合の最中だから許されるだろうと勝手に思っていた。
 先生がホイッスルを吹くと僕と彼はガッと掴み合った。僕は奴の首元を掴み、何度も一本背負いを決めようと努力した。だが、所詮体育で覚えた程度の技。決まるはずがなかった。
 それは古川も一緒だった。彼も懸命に技を決めようとするが、やった事が無い為決まらなかった。結局、何もできずに時間は過ぎ、僕と古川の最初で最後の肉弾戦は終わった。
 終わった後、彼は大声で友人に、
「あのデブ重てえからさ、全然持ち上がらないんだよ」
 などと言っていた。直接言わないくせに、しっかりと聞こえるように言うあたり、彼の人間としての愚かさが表れているな、と僕は勿論心の中でだけ思った。口に出して言わないあたり、僕の人間としての度胸の無さが伺えるな、とも思った。


 紅葉の香る秋がやってきた。僕の学校の周りの田んぼでは、稲が綺麗な金色に変わった。
 苛めはずっと続いた。僕は漫画を描いているとノートを破かれると思い、学校で漫画を描くのをやめた。学校での日々はただ苛めの事だけになり、つまらなくなって、長く感じるようになった。
 たくさんある時間の中で、僕は色々な事を考えた。古川をボコボコにして天下をとるなんて事は到底無理だったので、どうにかしてあいつに苛められないようにしよう、という後ろめたい考えに落ち着いた。
 その第一歩が、
「とりあえずオタクの匂いを無くそう」
 という事だった。最初に浮かんだのが「映画」だった。
 中学の頃に藤田という友人がいて、中学時代、彼はテニス部の顧問の女の先生が好きだった。ある日彼は僕に、
「先生を映画に誘ってくれない? 勿論、一緒に行くのは僕だけど」
 と頼んできた事があった。自分で言うのが恥ずかしかったらしい。僕はそれを快諾し、職員室のいた先生にその事を言った。先生はちょっと困ったような顔をして、
「三人ならいいわよ」
と言った。藤田は不満足ぞうな顔をしていたが、とりあえず行けるという事で納得した。
 だがデートの日に先生は来なかった。急遽仕事が入ったという事は後で聞いた話だが、藤田はチケットだけは既に買っておいた為、勿体無いという理由で二人だけでブルース・ウィリスの「ダイ・ハード3」を見た。巨大な地下トンネルに水が溢れるシーンは今でも好きなシーンだ。
 あれから僕はもっと映画を見たいと思うようになっていたが、漫画の方が大事だったので、なかなか手をつけられなかった。
 漫画が描けない状態になり、僕は映画を詳しく知ろうと決めた。映画好きという事で知られれば、その事で苛められる事は無いだろうという目算だった。
 当時劇場でやたらと騒がれていたのが「インデペンデンス・デイ」だった。地球に異性人がやってきて人を襲うという内容の作品だった。
 あれは凄く面白かった。迫力があったし、途中で異星人が人間に捕まって解剖される時に、突然ガバッと胴体が開くシーンでは周りの人達と一緒に驚いた。それと大統領役のビル・プルマンがとてもいい役をやっていたな、と感心した。
 その一本ですっかり僕は映画にハマってしまった。その後すぐにシルベスター・スタローン主演の「デイライト」を見た。こっちも凄く面白かった。それからは、近くのビデオレンタル店のカードを作り、有名な映画を見まくった。
 一日一本ずつぐらい見て、半年で十分に映画が語れるまでの知識を手に入れた。殺し屋になるなら「デスぺラード」のアントニオ・バンデラスのように殺したいと思った。死ぬなら「プラトーン」のウィレム・デフォーのように死にたいと思った。恋をするなら「スピード」のサンドラ・ブロックのような女とがいいと思った。
 使っている下敷きもアニメのモノから映画のモノに変えた。クラスでも僕の映画好きは有名になった。
 これで、苛めから解放されると思った。だが世の中そんなに甘くなかった。古川にとってはそんな事どうでもよく、相変わらず苛めは続けられた。あいつは僕個人が既に大嫌いだったようだった。
 それでも僕は映画を見続けた。


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