紅矢の目の前に大蛇が躍り出る。紅矢は歯を食いしばり、十本の剣を構える。そして、大蛇の眼前に飛び出すと、再び自らの体を激しく回転させ、その剣を振り下ろした。それは小さな竜巻のようだった。
大蛇が細切れにされ、掻き消える。だが、切華は驚く様子も無く、紅矢に向かって突進していく。その手にある鞭が地面を這うようにして紅矢に襲いかかる。
「はああ!」
だが、紅矢の回転は止まらない。突き出された剣に鞭が触れると、鞭はマシュマロか何かのようにブチブチと切れた。
紅矢の剣が切華の体に迫る。そして、すれ違いざま、彼女の左腕から鮮血が吹き飛んだ。
「きゃぁぁ!」
道路に倒れこむ切華。その傷口から流れる血が、道路に赤い染みを作った。紅矢の回転するのを止め、立ち止まる。大粒の汗を流し、荒い息継ぎを繰り返していた。
「切華‥‥。これ以上抵抗するなら、足を切るぞ」
「兄さまに切られるなら本望だわ」
ゆっくりと起き上がる切華。額と両腕から血を流し、体中傷だらけで、髪の毛は土や砂利を被り、それでも切華は笑みを絶やさなかった。
「もうやめるんだ。これ以上やったら、もう無事では済まない」
「最初っから無事に済むなんて思ってないわ」
「どうしてそんな態度なんだ、お前は。昔は‥‥いい子だったのに」
紅矢は哀れみに満ちた顔になる。切華は笑うのをやめ、長い髪をかき上げる。
「昔は何も知らなかったからよ」
「‥‥」
「兄さま‥‥。私と一緒に行きましょう。私と兄さまが一緒になれば、もうこの世で私達に勝てる奴なんか一人もいないわ」
真剣な目で紅矢を見つめる切華。その目には懇願の意が見て取れた。紅矢の決意が一瞬揺らぐ。
「お前が‥‥もう誰も傷つけないと誓うなら、俺はずっとお前と一緒にいる」
「兄さまは本当に優しいのね。できる事なら、その優しさを私だけに注いで欲しかった。それって、無理なお願いなのかしら?」
「もう一度言う。もう誰も傷つけないと誓うなら、俺はずっとお前と一緒にいる」
「‥‥」
言葉が無くなる二人。それは拒絶なのか、それとも共存なのか‥‥。
その時だった。遠くの方で爆発音が聞こえた。紅矢は振り向く。向こうの方で小さな煙が見えた。紅矢の背筋が凍り付く。
切華は小さく笑った。
「これで三人目」
「切華‥‥。何をした?」
「兄さま。道路には鉄が入ってるって、知ってた?」
「‥‥」
紅矢は切華と煙の方向を交互に見つめ、それから切華に攻撃する事無く、その場から去っていった。その方向は煙の方向だった。
「兄さま‥‥次で終わり。そうしたら、最後は兄さまよ」
切華は血を拭いながら、笑った。
「あんた。兄さまの仲間の‥‥」
「真北晃太って言うの。よろしく」
切華は道路で一人で仰向けになっている晃太を見て、眉をひそめた。
道路に大きな穴が開いている。近くには車の破片が落ちている。だが、車自体の残骸はどこにも見当らなかった。どうやら、狙いが反れたようだ。
「車は?」
「屋根がぶっ飛んだよ。その時の衝撃で落ちたの、俺」
「何で兄さまに助けられなかったのよ?」
「さあね。死んだと思われたんでしょ。車は止められなかったしな」
晃太はいつもの軽いノリで言う。しかし、彼の頭から血が流れている。体中も切華には及ばないが、かなりの傷があった。
「不運だったわね。それじゃ、さよなら」
切華は晃太の横を通り過ぎ、行こうとする。
「ちょっと待ってくれよ。俺も連れていってくれないかな?」
切華が立ち止まり、振り向く。頭から血を流しながらも、晃太は笑っていた。
「あんた‥‥何言ってんの? 頭打った?」
「いんや、無事だ。俺さ、別にあんたのにいちゃんにずっとついていこうって思ってたわけじゃねえんだ。ただ、刺激が欲しいだけなんだ。つまり、あんたでも問題無いって事」
「‥‥バカじゃないの」
切華は服の裾を千切り、乱暴に右手に巻く。晃太はよろけながらも、何とか立ち上がる。
「なあ、いいだろ?」
「嫌よ。私の隣にいられる男は兄さまただ一人。あんたみたいなクズ、いらないわ」
「何でそう意固地になるかねぇ。あんたの兄さまはそのクズのお仲間に熱をあげてるんだぜ」
「‥‥何が言いたいわけ?」
切華の眼光が鋭いものなる。何となくは想像していた事だったが、それが事実だと言われるとやはり動揺が隠せなかった。
「仲間はいた方がいいって事さ。一人じゃ無理な事も、二人ならできる事もある。例えそれがクズであったとしてもね」
晃太は笑って、額の血を拭った。切華にはその笑顔の意味が分からなかった。
「あんた‥‥誰の味方なのよ?」
「自分と可愛い女の子の味方さ」
屋根と晃太を失った車は、都会の光の中を走っていた。既に夜だった。道行く人々が、半壊の車を奇異の目で見つめる。しかし、乗っている五人はそんな目など気にもならなかった。
「本当にすまない」
紅矢は葉澄達に深々と頭を下げた。三人共、紅矢を責めるような事はしなかったが、励ましの言葉をかけてやる事もできなかった。
切華の放った電撃の大蛇は車の屋根に直撃した。その衝撃で屋根が跡形も無く吹き飛び、晃太が外に投げ出された。だが、いつ切華が襲ってくるか分からなかった美奈子はそのまま車を走らせた。あっと言う間に晃太は爆煙の中に消えた。晃太の生死は、彼らには分からなかった。
それからしばらくして、紅矢がやってきた。晃太が投げ出された事を知った紅矢はすぐに爆発現場に戻った。しかしその時、晃太の姿はどこにも無かった。その時、既に晃太は切華と行動を共にしていた。勿論、紅矢はそれを知らない。
五人は晃太が死んだと思っていた。
無言のまま、車はある巨大なビルの前に止まった。
「ここよ」
美奈子が車から降りる。四人も無言で車から降りた。そこは最初の事件のあった駅から驚く程近い場所にあった。
ビル内は驚くほど美しかった。真っ赤な絨毯に眩いステンドグラス。中世を連想させる内装は、高級ホテルのそれに匹敵した。美奈子は足早に受け付けに向かう。
「‥‥」
四人は入り口近くで立っていた。誰も何も言わなかった。今ようやく感じる、この戦いの重さ。身近な人間が死んだ、という事実の重さ。
「もう、君達はついてこない方がいい。おそらく、次の戦いが最後だ。一緒にいれば、被害は避けられない。俺はこれ以上‥‥犠牲者を出したくない」
「‥‥」
もう誰も、それに反論しなかった。次は自分かもしれない。そう考えてしまうと、それでもついていきますとは言えなかった。葉澄もそうだった。事の顛末は見たい。だが、死ぬのは何よりも恐かった。
美奈子が受け付けから戻ってくる。
「何話してるの? 行きましょう」
「美奈子さん、この三人はここでお別れですから」
「そうなの?」
「これ以上、犠牲者を出したくない」
紅矢は沈痛な面持ちで美奈子に告げる。だが、美奈子は飄々としていた。
「そう。そっちの子も? 彼女、絶対に切華に狙われてるわよ」
「誰も知らない所にいれば、狙われる事は無い。次の戦いで全てを終わりにすれば、それで彼女はもう危険には曝されない」
「あなたはそういう決断をしたのね。だったら、私は何も言わないわ。この事件で一番重要なのはあなたと私、そして守さんの三人だものね」
抑揚の無い美奈子の言葉に、紅矢は無言で小さく首肯いた。
葉澄は本当は紅矢と一緒にいたかった。真実を知り、心の苦しみまでも知った今、ずっと一緒にいて、できる事なら彼の心を癒したかった。しかし、今の彼にとって自分は重荷以外何物でもない。いれば切華に狙われ、彼はそれを阻止しなければいけない。ならば、いっそいない方がいい。その方が、彼のためなのだ。
もっとも、自分なんかでは紅矢の心を癒す事すら無理だろう。彼の心を癒せるのは、ただ切華だけなのだから。
そう葉澄が思っていた時だった。葉澄の携帯電話が鳴った。履歴を見てみる。それを見て、葉澄の息が止まった。
「‥‥晃太君だわ」
それを聞いて、四人の顔つきが変わった。葉澄は急いで電話にでる。
「もしもし? 晃太君? あなた、生きてたの? もしも‥‥」
矢継ぎ早に言う葉澄の言葉が不自然に止まる。そして、葉澄は電話を紅矢に手渡す。
「妹さんです」
「なっ! ‥‥もしもし」
驚きはしたものの、すぐに冷静になった紅矢は電話にでる。受話器の向こうから、切華の声が響いた。
「はろー、兄さま。元気?」
元気な声だった。とてもさっきまで熾烈な戦いをしていたとは思えなかった。
「何でお前、晃太君の携帯からかけてるんだ?」
「彼から借りてるからよ」
「生きているのか?」
「勿論よ。兄さま、ひどいじゃない。生きてるのに見捨てるなんて。まっ、彼はあんまり気にしてないみたいだけど」
切華の言葉に、紅矢はホッと胸を撫で下ろした。耳を済ませていた葉澄、明、麗の三人も大きくため息をつき、疲れた笑いを見せ合った。
「今、兄さまのお部屋を借りてるの。ごめんなさいね。ちょっと洗面所を血で汚しちゃったわ」
「そこに彼もいるのか?」
「ええっ。彼に教えてもらったんだもの、この部屋。‥‥男の子と一緒で心配?」
「ああっ、心配だね。お前が晃太を殺さないかどうか」
「彼なんか眼中に無いわ。それに、私の仲間になりたいなんて言ってるし」
「なっ‥‥」
予想もしなかった言葉に、紅矢の電話を持つ手が震えた。
「別に兄さま達の事が嫌いなわけじゃないみたいよ。ただ、刺激が欲しいだけなんですって。バカよね、私より」
ケラケラと笑う切華。その笑い声を無言で聞く四人。四人は切華の言葉が信じられなかった。晃太が切華に? そんなバカな。今までずっと一緒だったのに、どうして彼女の側なんかに‥‥。
「そんなんで彼、元気だから。あとね、そっちにいる葉澄って子、私許さないから。私の兄さまを横取りしようなんて考えてる奴、私は認めないわ。あと、残りの二人も見つけたらぶっ飛ばすわ」
切華の声が幾分小さくなる。笑いは無い。葉澄は思わず、紅矢のコートの端を強く握った。
「兄さま。次で最後にしましょうね。それで、必ず戻ってきてね」
その言葉を最後に、電話は切れた。
五人はエレベーターに乗り込み、紅矢の父親、守の部屋のあるビルの最上階へと向かった。エレベーター内は重い空気に満ちていた。切華の言葉があり、明、麗、葉澄の三人は紅矢についていく事にした。逃げる事などできない。そう三人は悟った。
「何で晃太君は切華の方についていこうと思ったんですかね?」
明が誰に言うでもなく呟いた。
「そんなの、私に聞かないでよ」
麗が不機嫌そうに答えた。葉澄も紅矢も、身を寄せ合ったまま何も答えなかった。
「大した問題は無いわ。人間一人が向こうについたからと言って、情況は何も変わらないわ。その子が電撃を使えるようになるわけでもないし」
「そういう問題じゃないのよ!」
抑揚無く語る美奈子の背中に、麗の激が飛んだ。だが、美奈子はピクリとも反応しない。
「お友達のあなた達には重要な問題でも、無関係の私や一般市民の人達はそう思うわ。一番問題なのは、切華を止められるかどうかなのよ」
「‥‥そんなの、分かってるわよ」
煮え切らない態度で、麗は答えた。そんな麗の背中を紅矢が優しくさする。
「おそらく、晃太君が戦いの場に来たとしても、切華は彼をかばうような事はしないだろう。なら、俺が切華を彼の被害の及ばない所まで連れ出す。それで問題は解決する」
「紅矢さんまで他人事みたいに‥‥」
「説得させる時間なんて無いんだ」
その言葉の直後、エレベーターは最上階に到着したベルを鳴らした。