「‥‥言わなかったんですね。あの事。言えば、紅矢君は少しはあなたを許すかもしれなかったのに」
「いいんだ。悪者は私だけでいい」
 守は前だけを見つめ、ゆっくりと言葉を吐き出す。美奈子はただ守の手を握っていた。
 麗と明はソファに座ったまま、眠っていた。残された二人は、沈んだまま、煙草をふかしていた。
 守は目の前で寝息を立てている明と麗をじっと見つめる。
「私はあの子達があういう風にして寝るところをほとんど見た事が無い。研究に追われる毎日だった。もしも、私がもっとあの子達に接していれば、こんな事にはならなかったのかもしれない」
「もしこうだったら、こうだったかもしれない。それは科学者の台詞じゃありません」
「分かっている。犠牲者はもう、何をしても蘇らない。だとしたら、もうこれ以上出さないようにするしかない」
「私達が死ねば、もう犠牲者は出ません。私は構いませんよ、あなたと死ぬなら」
 美奈子はくすりと笑い、瞳を閉じる。その顔をじっと見つめる守。
「二十三年前から変わらないな、君は」
「例えあなたに妻がいて、子供がいたとしても、変わりません」
 瞳を閉じたまま呟く美奈子。そこには何かを悟ったような女性の姿があった。
「私が死ねば、切華は喜び、紅矢は悲しむ。どちらを選ぶか難しいところだな」
「あなた自身はどう思ってるんですか?」
「私は‥‥死にたいね。息子娘に恨まれるなんて、辛すぎる」
 守はゆっくりと美奈子の肩に手を回し、煙草を灰皿に置いた。


「明日だ、きっと明日だ。いいか、この事は絶対に黙っているんだぞ。明日、必ずこの街で何かが起こる。そうしたら、すぐに出るんだ」
 窓からの景色を見つめながら、高次は携帯電話の向こうにいる人物に話しかけている。その様子を、麻子がじっと見つめている。
「頼んだぞ。銃携帯も構わない。責任は俺が取る。それじゃあ、また明日電話する」
 高次は携帯電話を切り、疲れた顔でベッドに横になる。そんな彼の頭を麻子が優しく撫でる。
「もう寝た方がいいですよ」
「寝たくても冴えて眠れないんだ。明日、この街で何かが起きると分かっているのに、おめおめと寝てられるか」
「でも、いざという時に踏張れませんよ」
「‥‥所詮、俺程度じゃ何もできない」
 高次の乱暴に言い放つ。麻子はそんな高次の頭をずっと撫でていた。
 麻子は高次の娘とも仲が良かった。まだ中学二年生で、高次は彼女をとても可愛がっていた。奥さんもとてもよくできた人で、麻子もよく諏訪宅にお邪魔していた。自分の先輩がこんなにいい家庭を持っている事に、麻子は誇りを感じていた。
 紅矢の話を聞いた時、麻子は思わず笑ってしまった。大事件が起こった時は、何人かはこういう誇大妄想に取り憑かれた人が出てくるものだと思ったものだ。しかし、今は笑えもしない。
 その信じられない事実が高次の娘を殺したのだから。
「麻子。お前も寝たらどうだ?」
 麻子に背を向けたまま、諏訪はぶっきら棒に言う。
「私だって眠れません」
「そうか‥‥。なら、一緒に朝日でも見るか」
「そうですね」
 高次はゆっくりと起き上がり、煙草に手をのばす。麻子は素早くそれに火を灯した。
「あまり、無理はしないでくださいね」
「努力しよう」
 この台詞。麻子は聞き飽きていた。高次のこの台詞は"無理をする"と同じ意味だった。やはり仕方ないのだろうか、と麻子は思う。愛する娘を失った悲しみが、復讐心と成り果てしまう事は。
 しかしだからこそ、自分はこの人をサポートしなければいけない。自分にできる事はそれだけ。憧れていたこの人に出来る唯一の事だ。


「‥‥何でもう傷が塞がってるんだ?」
「私の体は普通の人よりも活性が早いんですって。電気の力ね」
「あんたのにいちゃんもだけど、本当に便利な体だな」
 晃太は傷に絆創膏を貼りながらぼやく。切華は既に傷の塞がった右手を天井にかざす。
 切華と晃太は紅矢のマンションにいた。勿論、晃太が案内したのだ。切華は電撃でドアの施錠を破壊すると、室内に入り、傷の手当てを始めた。右手の傷が塞がったのはそれからすぐの事だった。
「便利だけど、次に生まれ変わる時は普通の体で生まれたいわ」
「そう? 勿体ない」
「‥‥何も知らないくせに、言うんじゃないわよ」
 切華はそう言うと、服を脱ぎ、下着姿になる。服はボロボロでとてももう一度着る事はできなかった。
 その美しい肢体にはもうほとんど傷は無かった。あれほど地面に叩きつけられ、明の真剣を食らい、紅矢の攻撃を受けたというのに、その面影はほとんど無かった。健康的な肌色の肌、それと対照的な怪しい魅力の黒髪。健全な少女の肉体だった。
 晃太はその体に思わず見入ってしまう。切華の目がジロリと向けられる。
「触ったら殺すから。この体に触れていいのは兄さまだけ」
 切華は黒髪を掻き上げると、タンスの中を物色しだす。晃太が切華の背中を異形を見る目で見つめる。
「あんたさ、ちゃんと考えた事ある? それってマジでイカれてるよ。あんたとあの人は実の兄妹なんだぜ? あんたの考えはさ、ちょっと危ねえよ」
 紅矢の服を取り出し、袖を通す切華。かなり大きかったが、着れなくはなかった。その切華が振り向き、突然晃太の胸ぐらを掴む。
「うるさいわね! あんたに私の気持ちなんか分かるはずないわ。世界でただ一人しか、信用できる人がいない私の気持ちなんて‥‥」
「分からないから言ってるのさ」
「あんた‥‥今ここで殺すわよ」
 切華の目が狼の目になる。しかし、晃太は相変わらず笑みを絶やさない。
「無駄にエネルギー、使わない方がいいんじゃないの?」
「‥‥」
 切華はしばらく晃太を睨み付けていたが、やがてその手を離した。
「あんた、少しは恐がりなさいよ」
「楽しいんだ。しょうがないだろう」
「‥‥バカじゃないの」
 言い捨てると、切華は台所に向かう。そして、冷蔵庫の中を漁りだす。
「メシ食うの?」
「違うわ。お弁当作るの」
「お弁当? 誰の?」
「兄さまのに決まってるじゃない」
「はっ? ‥‥あんた、何考えてるんだ?」
 小首を傾げる晃太。切華は冷蔵庫の中から適当なものを見つけると、台所に置き、別の棚から弁当箱を見つける。
「最近、兄さまに作ってあげてないから」
「作ってあげてないって‥‥。今度会ってもどうせ戦うんだろ? 弁当なんか食うのかよ」
「食べるわよ。なにせ、私が作るんだから」
「‥‥わけ分かんねえよ」
「言ったでしょ。あんたに私の気持ちなんて分からないって」
「‥‥」
 晃太はベッドに寝そべる。
 晃太の感想は、やっぱりおかしい、だった。切華の紅矢に対する想いは完全に愛だった。兄を慕う心などではない。疑いようの無い愛だ。
「世界でただ一人‥‥ね」
 もし自分がそういう立場だったとしたら、自分も肉親を愛してしまうのだろうか。いくら考えても、晃太には分からなかった。兄も妹もいなく、自分を理解してくれない両親だけを持つ晃太には、分からなかった。
 だからこそ、晃太はこの女に興味があった。紅矢が勝つよりも、切華が勝った方が面白い結末を迎えられるのではないか、と思った。
 そして何よりも、美奈子から聞いた切華の出生。あれを聞いた時、晃太はできる事ならば切華の側につこうと考えていた。
 もしも自分が二人のように生まれたのならば、自分は切華と同じ事をしただろう、とそう思ったのだ。例えそれが悪い事であろうとも、自分に素直な切華。そこに、晃太は興味をそそられた。
「俺さ、あんたの事、好きだぜ」
「くどいわね。私は兄さまだけが好きなの」
「違うよ。あんたの生き方が好きなのさ」
「誉められるような人生送ってないわ」
「だから好きなのさ」


「これで大丈夫です。一日寝れば、ほとんど治ってるはずです」
「そうか。ありがとう」
「いえ。私、これくらいしかできませんから」
 葉澄は苦笑いを浮かべて、頭を掻いた。上半身裸の紅矢の体には包帯が巻かれ、腕や首にも無数の絆創膏が貼られた。そんな事はしなくていいと紅矢は言ったが、それでも葉澄は手当てを申し出た。
 昔に戻れないのならば、殺してしまいたい。ああ言った紅矢の気持ちは今でもよく分からない。でも、葉澄は紅矢から離れたくなかった。分からないからと言って今この人から離れてしまったら、一生後悔してしまう。そう思っていた。
 紅矢は前を向いたまま、口を開ける。
「俺は分かっているつもりだ」
「‥‥さっきの事ですか?」
「ああっ。理由なんかどうでもよかった。それで何が変わるわけでもないし。受け入れるしかない。ただ、切華と静かに暮らしていければ良かったんだ」
「分かってます」
 恨みがあったわけでもなく、ましてこうなってほしいとも思っていなかった守。この人はそんな彼を許している。許しているからこそ、切華と戦う事を決めた。葉澄は分かっていた。
「いいですね、妹さんは。どんなに他人を傷つけても、愛してくれる人がいるんですから」
 葉澄は切華が羨ましかった。どんなに人を傷つけ、人に恨まれようとも、それでも信じてくれる人がいる。それほどまで愛されている切華。葉澄はそんな彼女が羨ましかった。
「君にもいつかそういう人ができるさ」
「だったら紅矢さんみたいな人がいいです」
 暖かい、人の血の通っている紅矢の背中に頬を寄せ、葉澄は呟く。自分はきっとこの人を愛しているのだろう、と葉澄は感じた。自分には欠片すら入り込める余地は無い。それでも、言いたい事は言っておきたかった。
 紅矢はじっと窓の外を見つめている。
「そうだな。切華が立派に独り立ちしたら、君を誘うかもしれない」
「じゃあ、待ってます」
 嬉しかった。それはもしかしたら切華に対する嫉妬かもしれない。でも、少しでもこの人は自分の事を見てくれている。それだけで葉澄は嬉しかった。
 ほんの少しだけ、葉澄は紅矢の気持ちが分かったような気がした。愛している者が人を傷つけ、自分から離れていく。そうなったら、何としてでも傍においておきたい。例え殺してでも、自分の隣にいてもらいたい。そう思うかもしれない。
「‥‥」
 葉澄は紅矢を後ろから強く抱き締めた。離れないように。殺したいなどと、決して思わないように。


第9章完
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