エレクトリック・エチュード 第10章


 生まれた時から、紅矢は人里離れた研究所の中にいた。紅矢が生まれた時、隣に父親と母親の姿は無かった。
 幼い頃から、紅矢には部屋を与えられていた。本が欲しいと言えば与えられ、美味しいものが食べたいと言えば食べられた。家族と外へ出る自由以外何でも手に入ったが、紅矢がそれを幸せだと思った事は一度も無かった。一人で食事をし、一人で風呂に入る。一人で起きて、一人で眠る。それは、幼い紅矢には堪え難い苦痛だった。
 彼の日課は二日に一回の身体検査だけだった。苦痛を伴うものではなかったが、自分を見下ろす人々の目が冷たくて、紅矢はその検査が大嫌いだった。
「問題無いようだ。だが、まだ進展は見られない」
 神奈川勇がカルテを覗き、他の毛利洋一郎、神崎美奈子、近衛守は首肯いた。その光景を、紅矢はただじっと見ているだけだった。その中に実の父親がいるなどと、その時の紅矢は知りもしなかった。
 どうして自分はこんな所でずっと過ごさなくてはいけないのか。ずっと紅矢は考えていた。両親もいない。友達もいない。テレビの向こうでは、自分と同じくらいの子供が学校というものに行って、外で遊んでいる。何故、自分はそれができないのか。紅矢は研究員達に何度も聞いたが、誰も答えてはくれなかった。
 何も分からないまま、紅矢は成長した。


 紅矢が五歳の時、切華がベッドの上で産声をあげた。その時、傍にいたのは紅矢だけだった。母親の顔を知らない紅矢にとって、切華はあまりにも特別な存在だった。
「これが僕の妹かあ」
 五歳の紅矢は、ベッドの上で眠っている幼子を眺めながら一人で呟いた。神崎美奈子が、そんな彼女にミルクをあげる。
「ねえ、僕にもやらせてよ」
「ダメよ。あなたは名前でも考えてなさい」
「名前? 僕が考えていいの? それじゃあね、切華」
「セツカ?」
「そう。切り花みたいに可愛く育つように」
「切り花って‥‥土に咲いてる花じゃないの?」
「だって、お父さんもお母さんも知らないから」
「‥‥」
 紅矢はセツカ、セツカと呟きながら、飽きる事無くミルクを飲む切華を見ていた。
 紅矢の心の拠り所は切華だけだった。二日か三日に一度、会える可愛い妹。何も分からず生きる紅矢の楽しみは、自分に無邪気に笑いかけてくれる切華に会う事だけだった。


 紅矢が八歳になった時、三歳の切華と一緒に住むようになった。その時、紅矢は心の底から喜んだ。切華がいるならどんなものにも耐えられる。例え学校に行かなくても、両親がいなくても、切華がいればいい。これでやっと、一人だけの暮らしから逃げられる。
 そう、紅矢は思っていた。
 切華は天真爛漫で、紅矢は手を焼いた。食事は食い散らかすし、お風呂もゆっくりと入らない。夜遅くまで起きて絵本を読んだり、五分と同じ場所にはいなかった。でも、そんな切華の世話をする事は、紅矢にとっては幸せ以外の何物でもなかった。
 だが切華も紅矢同様、検査を受けるのが大嫌いだった。泣き喚き、紅矢の名を呼んだ。その時、紅矢は何もできなかった。それが悔しくてたまらなかった。
 また、これも紅矢と同様の事で、外に出たがった。
「お兄ちゃん、今日は何して遊ぼうか?」
「今日はテレビゲームをしよう」
「それ、昨日もやったじゃない。セツカ、お外で遊びたい」
「それは兄ちゃんもだよ。でも、出してもらえないんだ」
「どうして?」
「‥‥それは兄ちゃんにも分からないんだ」
 生まれてから一度も外に出た事の無かった切華にとって、それは当たり前の気持ちだった。勿論、それは紅矢もだった。だが、切華の思いに紅矢は答えられなかった。
 切華は紅矢以上に研究員達に心を開かなかった。五年間一人の時期があった紅矢に比べ、
一時も一人になった事の無い切華は、紅矢だけを見て育ったためか、他の人間には拒絶的な態度をとった。研究員達も、いつ彼らにあの力が発動するか分からなかったため、必要最低限の接触しかしなかった。食事を運び、欲しいと言った物を与え、検査のために部屋から連れ出す。それ以外に、何もしようとはしなかった。
 それは近衛守もだった。守は研究の向こうにしか子供達を見る事ができなかった。そして、それに気づくのはずっと後、二人が研究所を脱走した時だった。


 紅矢が初めて自分の力を知ったのは十一歳の時だった。検査をしようとして切華を無理矢理部屋から連れ出そうとした研究員に、咄嗟に電撃を浴びせたのだ。部屋の壁に巨大な穴が空いた。研究員は死にはしなかったものの、腹に大火傷を負い重傷だった。
 その時、紅矢は自分だけが持つ力と、どうして自分がこんな所に閉じこめられているのかを知った。
 しばらくして、切華もその力に目覚めた。兄にあんな事ができるなら自分もできるかもしれない。それに、自分をこんな所に閉じこめておく奴らが嫌いだった切華の思いは強かった。電撃は呆気なく放たれ、直撃を受けた研究員は死亡した。
「お兄ちゃん。どうして私達にはこんな力があるの?」
「分からないんだ、兄ちゃんにも」
「でもさ、この力があれば外に出れるんじゃないの? 外に出ようよ。私、ここ嫌い」
「それはダメだよ」
「どうして?」
「‥‥僕達二人だけじゃ、生きていけないよ」
 紅矢はそう言って切華を抱き締め、頭を撫でた。
 切華は何故二人だけでは生きていけないのか、分からなかった。この力があれば外に出られる。そうすれば、もっと自由に遊べる。そう思っていた。
 六歳の切華には分からなかった。だが、十一歳の紅矢には分かっていた。この力は自分達にしか使えない。そして、使えるからこそここにいる。そんな自分達はここから出れるはずがない、と。


 自分達だけが特殊な力を持ち、研究員達は誰一人自分達に優しく声をかけてくれない。そして、研究所からは出られない。電撃が使えるようになってから、二人の監視は更に強化され、例え電撃を使ったとしても、出られるか分からないほどになっていた。研究員達の態度もより冷たくなり、その反動で紅矢と切華の関係も更に深くなっていた。
 十四歳の兄と、九歳の妹。それは世間ならばただの仲のいい兄妹だったかもしれない。しかし、二人はただ仲がいいだけでは語れなかった。
 二人が寄り添って眠る光景を見て、ある研究員はこう言った。まるで二人一緒でないと死んでしまうかのようだ、と。
 その言葉通り、切華と紅矢は常に一緒にいた。食事もお風呂も、寝る時も一緒だった。一時間足らずの検査の時の別れでさえ、二人は泣き叫んで拒んだ。研究員達は絶縁体の縫い込まれた服を着て、二人を無理矢理引き離そうとしたが、その度に二人は電撃を発し、研究所の壁を破壊したので、検査の時も一緒にいるようになった。
「お兄ちゃん、私達ってきっと、ずっとここにいるんでしょうね」
「何でそんな事言うんだ?」
「だって、この不思議な力は私達にしかない。だからこんな所に閉じこめられてる。きっと、死ぬまでここにいるんだわ」
「‥‥」
 紅矢は何も言えず、ただ切華の頭を撫でる事しかできなかった。それに身を委ねながらも、切華の瞳はゆっくりと紅矢のそれとは違うものになってきていた。


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