時は過ぎ、紅矢は十七歳、切華は十二歳になった。研究所内での生活に変わりは無く、二人だけの世界はより強固なものになっていた。しかし今の情況に対する考えは両極端になっていた。
自分の力がどんなものなのか、紅矢はそれを十分に知りながらも、その力を使って脱走しようとはしなかった。この力は忌むべきものだと、紅矢は思っていた。使う事もまったくと言っていいほど無く、できる事ならばこの実験はもう失敗だと研究員に思い知らせ、穏便にここから出たいと考えるようになっていた。
対して切華の方は、いつからか自分をこんな所に閉じこめておく人間達をひどく憎むようになっていた。ここに閉じこめておく奴ら、自分の体をこんなにした奴ら、自分達など知りもせず、のうのうと生きている奴ら。
切華は紅矢以外の全ての人間が大嫌いだった。
特に検査の時に決まって見る四人。神奈川勇、毛利洋一郎、神崎美奈子、そして近衛守。切華はこの四人の顔を見るのも嫌なほど憎んでいた。
その頃から、切華は自分のこの力について研究をするようになった。ただ飛ばすだけでなく、好きに形を変えられる事、鉄製の物だったら何でも通電させられる事、自分の体にため込めば自分も電気のようなスピードで移動できる事。全て独学で学んだ。
力を使えばこの研究所を破壊する事も、脱出する事も簡単だった。しかし、切華はしなかった。切華にとって心を預けられるのは紅矢だけだった。その紅矢は電撃を使う事をひどく嫌っていた。電撃を使ったら、例え脱出できても紅矢に嫌われてしまうかもしれない。
そんな思いが、切華を思いとどまらせていた。
そんな時、初めて母親という女性と出会った。あまりにも突然の出来事だった。何故今になってと二人は思ったが、その女性は涙を流しながら、紅矢と切華を抱き締めた。
艶のある黒髪、高めの鼻。痩せて、弱々しく見えたものの、その女性は確かに二人の母親だった。
「本当にごめんね。紅矢、切華」
「あなたの‥‥名前は?」
「泉よ。近衛泉。あなた達の母親よ。本当に大きくなったわね」
「‥‥」
生まれて十数年して、二人は初めて母親の名前を知った。
二日か三日に一度程度、泉は紅矢と切華の前に現れた。泉は毎回紅矢と切華を抱き締め、涙を流しては小さな声でごめんね、と呟いた。
紅矢は泉を怒りをぶつけようとはしなかった。何故今まで姿を現さなかったのか。それは確かに気になったが、もう今となってはどうでもいい事。その事で怒るなど、何の意味も無い事だと紅矢は思っていた。
「紅矢、本当にごめんね」
「いいんだ」
「こんなに長い間二人っきりにさせてしまって」
「いいって言ってるだろ? 僕は切華といられて本当に幸せだよ。ずっとここにいるのはちょっと嫌だけど、でも、切華がいるから大丈夫だよ」
「ありがとう‥‥」
泉はいつまでも紅矢を抱き締めていた。
一方、切華は何故この人はごめんねと言うのか、よく分からなかった。生まれてからずっと紅矢と過ごしてきた切華にとって、独りぼっちになった事の無い切華にとって、両親という存在は何の意味も無かった。初めての出会いも、抱擁も、何の感情も湧かなかった。
「切華。お兄ちゃんは優しい?」
「うん。とっても優しい」
「そう。二人とも喧嘩なんかしちゃダメよ」
「今まで一度だってした事無いわ。だって、私はお兄ちゃんを愛してるもの」
紅矢の方は泉と出会っても何も変化は無かった。大人になるにつれ、紅矢は冷静に物事を見つめるようになっていった。だが切華の方は泉が紅矢と仲良くしているのを見て明らかに嫉妬し、以前よりも紅矢を求めるようになっていた。
切華はその頃から髪をのばし始めた。それは紅矢が毎日切華の髪の毛を櫛で梳いてくれるからだった。髪をのばせば梳いてもらえる時間が増える。その思いだけで、切華を髪毛をのばし始めた。
「切華‥‥。髪、のばしてるのか?」
「うん。そうすれば、お兄ちゃんにずっと梳いてもらえるし」
「そうか‥‥。そんなに長くのばすなよ。結構大変なんだぞ」
「はあい」
そんな他愛も無い言葉を、心の底から願うようになっていった。
「お兄ちゃん。私達、結婚しようね」
「ここでか?」
「どこでもいいわ。でも、このままずっとここで暮らすのなら、ここでもいい。私はお兄ちゃんと結婚できれば、それでいいわ」
「でも、兄妹で結婚はできないんだぞ」
「いいじゃない。私達は特別なんでしょ?」
「‥‥そうだな。特別だったな」
切華の紅矢に対する想いは確実に変わっていた。嫉妬が生む、異常なまでの愛。それが、切華を包んでいた。
紅矢もそれは分かっていた。そして、拒もうとしなかった。いくら母親と出会ったとしても、紅矢の一番大事な存在はやはり切華だった。
いくつになっても、紅矢と切華は二人で眠り、二人で風呂に入り、二人で食事をした。
「私ね、お兄ちゃんの言う事なら何でも聞くから」
それが、寝る前の切華の口癖だった。
「そうか。いつか、ここから逃げ出そうな」
「うん」
その日を待ちながら、切華は紅矢の腕の中で眠った。
そしてその事件は紅矢が二十二歳、切華が十七歳の時、ついに起こった。紅矢がついに研究所から脱出すると提案したのだ。
紅矢は本当はこんな方法はとりたくなかった。しかし、自分達の力を使って研究員達が何かをしようとしている事を感じ取った紅矢は、このままでは切華と離れ離れになってしまうのではないかと考え、この結論に至った。
切華は心の底から喜んだ。紅矢と二人だけで自由な生活を送る。それが夢だった切華にとって、その提案は喜ばしい事だった。
だが決行前日。紅矢は泉も連れていくと切華に告げた。切華はそれを聞いて大反対した。
「お兄ちゃん、分からないよ。何であの人まで連れていくの?」
「あの人は俺達の母親だ。あの人も被害者なんだ。だから、連れていく」
「二人だけじゃなかったの?」
「‥‥切華。今は分からないかもしれない。でもいつか、きっと分かる日が来る。この人を連れてきて正解だったって」
いくら説得しても紅矢は折れず、仕方なく切華はそれを承諾した。
泉を連れ出すという計画は、紅矢にとっては重要だった。何故自分達がこんな目に遭ってきたのか、その真相を知りたかったからだ。そして、泉と生活させれば、少しは気丈の激しい切華の性格が治せるのではないか、という思いもあった。
正直、母親だから、という理由はほとんど無かった。
脱出の際、紅矢は手加減しながら攻撃していたのに対して、切華は今まで学んできたあらゆる技を使った。天井に大穴を開け、向かってくる研究員達を片っ端から黒焦げにした。この時、切華は心のどこかがとても清らかになっていくような気がした。この十七年間、住みたくもないのに住んできた研究所を破壊する快感、それはたまらなく心地好かった。
成長し、電撃を自由に操れるようになっていた紅矢と切華にとって、研究所からの脱出は実に簡単な事だった。
脱出は見事に成功し、切華と紅矢は泉を連れて、研究所から遥か遠くの街に住む事になった。それがあの街だった。