エレクトリック・エチュード 第11章


 三人は街の小さなアパートで暮らす事になった。自分達だけで生きるため、二人は偽名を使ってアルバイトも始めた。その生活は決して豊かとは言えなかった。しかしそれでも、ずっと夢の中で思い描いていた生活に変わりは無かった。
 苦しくとも紅矢と切華は幸せの極みの中にいた。
 初めて知った普通の生活。自分達で食事を用意して、自分達で着る服を選ぶ。そして、自分達の意志で外を歩く。何もかもが新鮮で、そして楽しかった。
 切華は十七年間夢の中で思い描いていたあらゆる場所へ紅矢と共に行った。映画館、遊園地、水族館、動物園‥‥。テレビの中でしかなかった世界は、眩しく切華の目に映った。
 ちょっとだけ化粧をして、お洒落な服を着て、紅矢の腕を取り、夢の世界を歩く。それ以上の幸福など、切華には思い浮かばなかった。
 紅矢もその日々に至上の喜びを感じていた。こんなに眩しく、嬉しそうな妹の姿は、今まで一度たりとも見た事が無かった。毎日お弁当を作ってくれて、一緒にどこかに出掛ける時は可愛らしくお洒落もした。本当に幸せそうで、それを見ていると例え突発的な脱出であったとしても良かったんだ、と思えた。
 友人関係は決して深いところまではいかない、そして決して電撃は使ってはいけないという暗黙の了解はあったものの、二人の生活は追い風を受けてひた走る帆船のように順調だった。
 紅矢はそのままでよかった。しかし、切華にはどうしても気に食わない事があった。それは泉だった。紅矢と二人だけで生活する事が、切華の幸せだった。そんな彼女にとって泉の存在は疎ましいモノ以外何物でもなかった。
 泉は体が弱く、働く事ができなかったので、いつもアパートの中で寝てばかりいた。切華は何故、紅矢がこの女性を連れてきたのか、ずっと分からなかった。
「母さん、食事だよ」
「‥‥ありがとう、紅矢」
 毎日、食事は紅矢と切華が用意した。
「本当にごめんね。せっかく連れ出してもらったのに、何もできなくて」
「いいんだよ、母さん」
 紅矢は泉にいつも優しかった。泉も紅矢の前では大人しそうな笑顔を見せた。それが、切華には許せなかった。
 泉が寝静まってから、いつも切華は紅矢に問い掛けた。
「お兄ちゃん。何でこの人連れてきたの? やっぱり分からないわ」
「母親なんだ。大切にするのは当たり前だろ?」
「でも、この人は私が十歳になるまで現われなかった。お父さんの事だって何も話してくれない。どうして私達はこんな力を持たなくちゃいけなかったのかも、教えてくれない。私とお兄ちゃんに両親なんて大事でも何でもないじゃない」
 泉は父親の事、何故自分の子にあのような実験を施したのか、一言も話してくれなかった。それが切華の苛立ちを募らせていた。
 そんな切華を、紅矢は冷静に諭した。
「でも、この人は俺達に涙を流してくれた。例えずっと姿を現さなくても、何も話してくれなくても、母親に変わりは無いんだ。だったら、優しく接してあげないとダメだ」
「‥‥」
 切華には分からなかった。どうして、この人がそんなに大切なのか。紅矢は自分の事が一番大切ではないのか。どうして、こんな何の役にも立たない女が大切なのか。
 いくら考えても、切華には分からなかった。
 この時、紅矢の気持ちは複雑だった。紅矢は泉からその真実のほとんどを聞いていた。
だがそれを切華には話さなかった。それを言ってしまったら、泉と切華の関係はもっと悪くなってしまう。決して気持ちは変わっていない。切華の事は誰よりも愛していた。だが、泉の事も大切にしたいと思っていた。家族なのだ。まだそんな実感は無いが、いつかそう思える日を、紅矢は待っていた。
 でも、切華はそんな紅矢の願いを知ろうとはしなかった。いや。できなかった。今の切華は紅矢を想うがあまり、盲目になっていた。


 三人で生活を始め、一年の月日が経った。生活は相変わらずだったが、研究所の人間が二人の元に現れる事も無く、紅矢達も自分の異なる力を使う事無く、穏やかな生活が続いていた。
 しかし、切華は泉に対する憎しみは増えていった。自分の思い描いていた世界に唯一存在する異物。そんな思いは一年で膨らむところまで膨らんでいた。
 そして、全てがあの戦いへと変わるその日が訪れた。
 それは紅矢がアルバイトで夜遅くまで帰ってこない日だった。何の変哲も無い、穏やかな夕闇の日。家には切華と泉だけがいた。
「‥‥母さん、ご飯ができたよ」
 切華はテーブルの上に三人分の食事を置いた。泉はゆっくりと布団から起き上がる。
「ありがとう、切華」
「‥‥」
 髪の毛の艶も、目も鼻もよく似ている。自分も年老いたらこんな顔になるのだろうか、と切華は泉を見ながら思った。
 二人での食事に会話はほとんど無かった。でも、切華は聞きたい事があった。
「ねえ母さん」
「何?」
「私、知りたいの。どうして自分がこんな体で生まれたのか、を」
 それを聞くと、泉の顔が僅かに曇った。ずっと気になっていた事だった。研究所は破壊し尽くした。だが、まだ納得できていない。誰が何の為に自分の体をこんなにしたのか。切華はそれが知りたかった。
「どうして知りたいの?」
 泉は俯き、訊ねる。切華はそんな泉をしっかりとした眼差しで見つめている。
「そう思うのは普通だと思うわ。どうして今まで話してくれなかったのか。そっちの方がうんと疑問よ」
「‥‥そうね。当然よね」
 泉は少し項垂れ、箸をテーブルに置いた。仕方ないという表情を見せながらも、どこか覚悟していたという一面も見て取れた。
 そして泉は全てを切華に話した。神奈川勇、毛利洋一郎、神崎美奈子、近衛守の四人が主犯であるという事。守が実の父親であるという事。
 そして、泉が自ら進んで実験台になったという事‥‥。


前のページ   次のページ