エレクトリック・エチュード 第12章


 ちょうどその頃。小雨の降るビルの屋上。紅矢と切華の二人はコンクリート屋根の下、ちょうど雨の当たらない所に二人並んで座っていた。紅矢の手には、切華の作った弁当がある。紅矢はそれを美味しそうに食べていた。
「美味しい?」
 切華が期待に胸を膨らませた顔で聞いてくる。
「ああっ、美味しいよ。久しぶりだな、切華の料理を食べるのは」
「ふふっ、ありがとう」
 にこやかに破顔する切華。紅矢も笑いながら弁当を口にしている。弁当のおかずは有り合わせのものだったが、紅矢にとっては好物ばかりだった。
「あと、ごめんなさい。兄さまの服、借りてるわ」
 切華は着ている服を見せる。紅矢と似ていて、灰色のコートに黒いシャツとズボンだ。
「気にするな。でも、少し大きいだろう?」
「でも、兄さまの匂いがするから好きよ」
 小雨の中、寄り添い合う二人。
「ねえ兄さま。一緒に映画に行った事、覚えてる?」
「ああっ。確か、ラブコメディだったな」
「そう。兄さま、途中で寝ちゃうんですもの」
「悪い。少し疲れてたんだ。仕事明けだったからな」
 苦笑いを漏らした紅矢は、切華の頭を乱暴に撫でる。切華は猫のように目を閉じて、嬉しがる。辺りに人はいない。そこは切華と紅矢だけの世界がある。そこには憎しみも悲しみも無い。
 言葉が無くなると、切華は小さくため息をつき、紅矢の肩に頭を乗せる。
「‥‥兄さま。私の事、嫌いになった?」
「いいや。気持ちは変わってない」
「本当?」
「ああっ。お前が何をしようと俺の気持ちは変わらない。ただ自分の思い通りにならないから剣を振るってるだけさ」
「ふふっ、私も同じ。安心した」
 切華は口元を押さえて微笑む。紅矢もご飯を口にほおばりながら苦笑した。
 目指す果ては同じ。ただその過程が違うだけ。切華は科学者達を殺して紅矢と一緒になりたい。紅矢はそれを食い止めて切華と一緒になりたい。
 憎しみは無い。ただ、変わらない想いがあるだけ。そのために、二人は拳を交える。
 紅矢は弁当を食べ終え、煙草を口にした。
「食後の煙草はうまいな」
「兄さま‥‥。病気になっちゃうわよ」
「いいさ。このうまさが味わえなくなるなら、死んだ方がいい」
「言い過ぎ」
 切華は口元を押さえてクスクスと笑う。そして、笑いがおさまるとゆっくりと立ち上がった。
「もうやるのか?」
「逃げちゃうもん、あの人達。兄さまの事だから、もう連絡はしてあるんでしょ? だったら急がないと」
「‥‥じゃあ、俺も行くか」
 煙草をくわえたまま、紅矢も立ち上がった。
 小雨は相変わらず止まない。紅矢は空を見た。そこには他の場所よりも遥かに暗い雲が集まっていた。
「ねぇ、兄さま。エチュードって言う言葉、知ってる?」
「いや、知らないな」
「エチュードって言うのはね、よくできた習作の事を言うんですって。あとね、チェスの試合とかであまりにも見事な一戦の事もそう言うらしいの」
「そうか、知らなかったよ」
 暗雲は更に深くビルの上に集まる。まるで雲自体が落ちてきそうだった。だが落ちるのは雲などではない。
「私達の戦いはさながらエレクトリック・エチュードってところよね」
「‥‥そうだな。ぴったりだ」
 紅矢がそう言った瞬間、青い光が街全体を包み込んだ。
 暗雲から一本の巨大な稲妻が落ち、それがビルに直撃した。


 光と同時に耳を切り裂くほどの巨大な雷鳴がこだました。紅矢と切華はその瞬間にビルの屋上から空に翔んでいた。二人の目の前でビルの屋上が巨大な爆発と共に吹き飛んだ。そして、連鎖反応にように、次々と下の階が崩壊していく。
「逃げろぉぉ!」
 下にいた高次があらん限りの声で叫び、人々を誘導した。その隣では麻子も同じように叫んでいる。ビルから蟻のように人々が飛び出す。彼らの上に無数の瓦礫が落ちてくる。
「ぎゃああ!」
「いやあぁ!」
 ある者は頭に、ある者は肩に瓦礫を受け、その場で息絶えた。それでも人の群れは途切れる事無く、懸命に高次は声を張り上げた。
「こっちだ! 出来るだけ遠くまで逃げろ!」
「諏訪さん! 私達も早く!」
 麻子は叫び、用意していた覆面パトカーに乗り込む。すぐに高次も乗り込む。車は急発進する。そんな車のすぐ横を特大の瓦礫が落ちる。しかし、車はスピードを緩める事無く、ビルから遠ざかった。ビルから焦茶色の煙が吐き出され、それが逃げ遅れた人々を飲み込んでいった。
「くっ! とんでもねえ事しやがった。あいつ」
「ですね。ここに最後の二人がいるんですから当然なんでしょうけど」
 人の群れを掻き分けて車を走らせる麻子。もうここまで来るとビルの被害は及ばない。
「さて、じゃあ諏訪さん。我々も準備しましょう。守さん達を探さないと」
「それほど遠くには行ってないだろう。署の奴全員引っ張り出す」
 そう言って、高次はコートから拳銃を取り出した。
 その頃、葉澄達は既にビルから遠く離れた所を走っていた。雷鳴が轟くと皆立ち止まり振り向く。そこには粉塵を吹き上げ、瓦礫と共に崩壊していく巨大ビルの姿があった。
「始まったわ‥‥」
 麗が愕然とする。その隣で守が驚きの目を向ける。
「まさかここまで凄いとは‥‥」
 ビルは轟音と共に消えていく。下の方で怒号と悲鳴が響き渡る。何が起きたのかすら分からない人々の大群が、葉澄達を通り越して逃げていく。それはまるで映画の一シーンを見ているかのようだったが、今の葉澄には現実味を帯びた映像に見えた。
「切華は?」
 明が辺りを見回す。そして、上を向いた時、顔色が変わった。切華が五人の真上十メートルの所に浮いていた。彼女は不気味なほどすっきりと笑っていた。
「逃げちゃダメだってば!」
 手を上げ、振り下ろす。さっきよりも小さい稲妻が、今度は五人目がけた落ちた。
 しかし、それは地面には突き刺さらない。矢のようなスピードで切華と六人の間に入ってきた紅矢の放った光の壁が、稲妻を五人に当たる寸前に防いだ。稲妻は無数に分散され、道路の両端のビル郡を破壊した。
「まだまだぁ!」
 切華は空を蹴り、五人の前に躍り出る。そして、守を睨み付け、両手に力を込めた。


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