数秒の静寂の後、再び二人は迫った。切華の鞭がさっきよりも更に素早く、まるで生きているかのように大地と空に舞う。その雪崩のような攻撃に、紅矢は真っ向から突っ込む。
八の剣は何度も鞭を切り裂く。それでも鞭は再生し、紅矢の衣服を焦がしていく。
「はああ!」
 切華に負けない怒涛の勢いで、紅矢は鞭の洪水を切り開いていく。だが切華は慌てる事無く紅矢との距離を置くと、片足で大地を叩いた。すると、一匹の大蛇が鞭の洪水の中から現れ、紅矢に向かった。
「なっ‥‥」
 意表を突かれた紅矢の胴体に大蛇の歯が食い込んだ。紅矢の体が後方に吹き飛ぶ。大蛇は紅矢に食らい付いたまま離れない。紅矢は後方に飛ばされながらも、剣で腹に食らい付いた大蛇を掻き切った。
「がはぁ!」
 大蛇が消え、紅矢が瓦礫に背を叩きつけられる。その腹は服が焼け落ち、肌がひどく焼けただれ、血が滲んでいた。
「兄さま‥‥。もうやめた方がいいわ。本気で死ぬわよ」
 切華が荒く息づきをしながら言う。切華ももう、限界寸前だった。
「‥‥黙ってくれ」
「‥‥まだやる気なのね。そう‥‥」
 切華は雨の振る空を仰ぐ。空は暗く、まだどこかで雷鳴が轟いている。切華は片手を空にかざす。雷鳴が近くなってくる。
「‥‥」
 痛みを堪えながらも、立ち上がる紅矢。その手にもう剣は無い。雷鳴がすぐ真上にまで来る。
「私の願いはね、兄さまを殺す事じゃないのよ。そう、エチュードを完成させる事‥‥」
 切華が天を見る。天の雲は紅矢の上には無かった。紅矢の目の色が変わる。そして、振り向いて叫んだ。
「逃げろぉぉ! 葉澄ぃ!」


「!」
 その声を聞いたのは守だった。守は空と葉澄を見る。葉澄はその声が聞こえていないようだった。そして、空にはどす黒い雲があった。
 その瞬間、守は葉澄を突き飛ばした。葉澄は突然の事で、尻餅をついて倒れる。
「何を‥‥」
 何故突き飛ばされたのか分からない葉澄。守は黙ったままだ。そんな守に美奈子が抱きつく。
「美奈子君‥‥」
「私だけ置いていくつもりですか?」
「君は生き残れ」
「嫌です。私、守さんに言いたい事があったんです。でも、泉さんが守さんの奥さんだって知って、言えなかったんです」
「‥‥」
「愛していますよ」
 美奈子は笑って、守にそう告げた。守もそれに応えて笑った。
 そして、守は落ち着いた笑顔で葉澄を見つめた。その目は紅矢の目とそっくりだった。
「葉澄君。紅矢と切華に伝えてくれ。愛していた、と」
 その瞬間だった。蒼い一本の稲妻が降り注いだ。光が二人を包んだ。道路が砕け、風が薙ぎ、葉澄の体を吹き飛ばした。
 守と美奈子の姿は光の中に消えた。


「切華ぁぁ!」
 紅矢が涙を流して切華に剣を向け、走りだした。切華は手に力を込める。
「‥‥えっ?」
 その瞬間、紅矢の剣が切華の体を刺し貫いた。切華の手からは、何の光も出なかった。
 あの稲妻が最後の力だと、切華は分からなかった。
 全ての時間が止まった。切華は目を見開いたまま、剣の刺さった腹部を見つめる。そこらから血が溢れていた。血は剣に触れると蒸発し、煙となって空へ昇った。
「‥‥ふふっ」
 切華は血を吐きながら、微かに笑った。震える手で紅矢の頬を撫でる。
「切華‥‥」
 紅矢は呟き、剣を消し去る。切華はそのまま紅矢に倒れこんだ。紅矢と切華が拳を交えてから、初めての抱擁だった。
「‥‥お兄ちゃん。天国で、待ってるわ‥‥」
 切華の目には涙があった。それは雨などではなく、確かに涙だった。そして、切華はそのままパタリと手を落とした。
「‥‥すぐ行くさ」
 紅矢は切華を強く抱き締め、答えた。


 雨がゆっくりと止みだす。辺りが次第に静寂に包まれていく。無数のビルが崩壊し、道路が抉れ、人が死んだ。なのに、驚くほど静かになっていく。
「‥‥」
 麻子がゆっくりと大破したパトカーの影から顔を出す。服はボロボロで、顔にもいくつかの火傷があった。それでも、麻子は生きていた。
「‥‥諏訪さん?」
 麻子は高次の姿を探す。そして、その視界に倒れている彼の姿があった。麻子はゆろけながらも高次に近寄る。
「諏訪さん‥‥す‥‥」
 麻子の言葉が止まった。高次はもう、息をしていなかった。目を見開き、銃を握り締めたまま、息絶えていた。麻子は無言でそんな高次の目蓋を降ろした。
「‥‥終わりましたよ」
 麻子はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。遠くには重なり合った紅矢と切華の姿がある。麻子はその場に高次を残したまま、二人に向かって足を進めた。反対側から、葉澄が駆け寄ってくる姿が見えた。
「‥‥紅矢さん」
 紅矢の近くに立つ葉澄。紅矢は雨に濡れたまま、まったく動かない。葉澄は彼に触れようと手をのばして、止めた。紅矢の脇の下から、切華の腕がのびている。それはもう、生を感じさせない腕だった。
 紅矢と切華を囲む麻子と葉澄。その中で、紅矢は目を閉じたままの切華の頭を撫でていた。
「終わったよ。何もかもがね」
 紅矢の顔は喜びになど満ちていなかった。涙が、雨に溶けていた。
「‥‥」
 全てが終わった。切華の復讐は終わり、紅矢の役目も終わった。全ての幕が降ろされた。だからこそ、葉澄は何も言えなかった。
 彼の顔は今まで見たどの顔よりも悲しみに濡れていた。この結末を紅矢は望んでいなかった。でも、この結末しかなかった。これ以外の方法で切華は止められなかった。
 麻子が近づく。そんな彼女に紅矢は鋭い目を向けた。
「来ないでくれ」
「‥‥」
 麻子の足が止まる。紅矢は再び切華に目を落とし、綺麗な黒髪を撫でる。
「切華は渡さない。切華は俺の物だ」
「だけど‥‥彼女はもう死んでいるわ」
「だから、もう俺の物だ」
「殺人犯よ。あなたの物じゃない」
「黙れ。‥‥黙ってくれ」
 紅矢は切華を抱き上げ、立ち上がる。紅矢の腕の中で、切華は目を閉じ動かない。葉澄は初めて切華の顔をしっかりと見た。今まで刹那にしか見なかった顔。その顔は紅矢ととてもよく似ていて、美人だった。
 紅矢は切華の顔を覗き込む。何かを確認しているような顔だった。そして、ゆっくりと顔を上げ、そして葉澄を見た。穏やかな顔だった。
「今まで、ありがとう」
 葉澄は一瞬戸惑った。だが、すぐにその顔に応えた。
「言われるような事、してません」
「君達に会えて、幸せだったよ」
「私もです」
「‥‥さようならだ」
「嫌です。まだ、話してない事、話してもらってない事、たくさんあります」
「‥‥ごめんな」
 紅矢はゆっくりと葉澄に近付き、その頬にキスをした。ピリッとしたモノが葉澄の体に流れた。その反応なのか、葉澄の目から一雫の涙がこぼれた。
 紅矢は葉澄から少し離れ、切華を抱えたまま空高くジャンプした。ビルの壁に何度か足をつけ、紅矢の姿は薄れていく黒雲の中に消えた。
 麻子、葉澄は空を見上げた。雨はもう止んでいた。
「‥‥もう、戻ってこないでしょうね」
 麻子が呟く。葉澄は瞬きもせず、段々と晴れていく空を見つめていた。
「‥‥」
 デートをしようと言った事、あの人は覚えているだろうか。そう、葉澄は思っていた。
「絶対に追いかけますから」


第13章完
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