紅矢のマンションから歩いて二十分程の所にある巨大な病院は警察署同様、人でごった返していた。あの事件で死亡した人の遺族、または怪我を負った人々でいっぱいだった。医者達の怒号と遺族達の啜り泣く声。血と病院独特の匂いが入り交じり、葉澄達は思わず口元を押さえた。
 紅矢はそんな四人を無視して、受け付けに向かった。
「すみません。神奈川勇という人に会いたいんですが、どこの病室ですか?」
 受け付けの女性の看護師は名前を聞いて、パソコンに向かう。
「すみません。その人は今面会謝絶なんですが‥‥」
「教え子なんです。どうしても容態が知りたくて‥‥少しでいいんです。お願いします」
 教え子という言葉に、後ろの四人は顔を見合わす。晃太が顎に手を当てる。
「どこかの大学の教授なのかな?」
「分からないわ。けど、きっとかなり偉い人なんだわ」
 葉澄は紅矢の横顔を見ながら答えた。
 看護師はかなり忙しいようで、これ以上紅矢達と関わり合いたくなかったようだ。その後すんなり病室名を教えてくれた。
「その人は軽傷ですけど、くれぐれも他の人の迷惑にならないようにお願いします。あの人も、昨日の事件の被害者なんですから」
「分かってます」
 紅矢は足早に受け付けから離れ、二階へと昇っていく。その後に四人も続いた。
 紅矢はマンションを出てから一言も四人と口を聞いていない。四人もそんな紅矢に話しかけられなかった。どんな話をすればいいのか、分からなかった。
 葉澄が麗の肩に触れる。
「小川さん‥‥」
「麗さんくらいでいいわ。堅苦しいのは苦手なのよ」
「それじゃあ麗さんで‥‥。麗さん、どうしてついてこようって思ったんですか? 本当にあの理由なんですか?」
 マンションを出た時から気になっていた事だった。案の定と言うべきか、ここに来るまで一度も警官には止められなかった。あの理由は、その場しのぎだったのではないか、と葉澄はずっと考えていた。
 麗は微笑し、長いストレートヘアーを掻き上げる。葉澄には無い、大人っぽさが漂う。
「葉澄ちゃん、自分で言ったじゃない。このまま元の生活には戻りたくないって」
「はい。言いました」
「私もそう。あの現場を見て、そして再びあの男と出会った。あれが電気だなんて馬鹿げた話もあの女の子がまだ続けるって事も聞いた。ここまで知ったら、私は全てが知りたいの。危険かもしれないけど、でも、ただニュースを見てるなんて我慢できない」
「俺も同意見だね」
 後ろから晃太が麗と葉澄の間に割って入る。
「俺達なんか何にもできないだろうけどさ、でもこのまま帰ったら、殺人犯の顔を知ってるのに通報もしないでのうのうと生きるみたいでさ、気分悪いんだよね」
 それは葉澄も思っていた事だ。そうだ。このままでは生殺しだ。何もできないだろうが、それでもいいからこの事件の顛末を知りたい。学校なんてどうでもいい。
 葉澄は他の人も自分と同じ意見だった事が、素直に嬉しかった。
「皆さんも同じ意見だったんですね」
 葉澄の言葉に、一番後ろを歩いていた明も首肯く。
「危なくなったら逃げればいいんです。あの切華って子は、私達には何の興味も無いみたいですから。逃げればそれで大丈夫だと思います」
 彼の手には布製の袋に入った竹刀がある。葉澄は彼が剣道部だと言っていた事を思い出す。あんなのではろくに戦う事もできないとは思うが、一番後ろに竹刀を持った人がいるというだけで安心した。
「どんな理由でついてくるのも構わないが、邪魔だけはしないでほしいな」
 話を聞いていたのか、前を見たまま紅矢がポツリと呟いた。
「何もするつもりは無いわ。どうせ、できないんだろうし」
 麗がはっきりと答えた。紅矢は立ち止まり、振り向く。
「だったら、身につけている時計なんかの金属性の物はとっておいた方がいい。もしも切華がやってきて電気を放出したら、感電して死ぬからな」
 そう言われ、四人は慌てて身につけていた時計などの金属性の物を外した。


「! ‥‥こっ、紅矢」
 神奈川勇は紅矢を見て、顔面蒼白になった。勇は十畳程の病室に一人で寝ていた。ベッド以外ほとんど目につく物が無い部屋だ。壁には窓があり、そこから下は軽く五メートルはある。
 勇は痩せ細っていて、顔は皺だらけで、髪の毛は真っ白だった。どう見ても六十は過ぎている。腕から数本の管がのびていて、とても弱々しく見えた。
 紅矢はそんな勇の前に立ち、冷たい口調で言う。
「あれは俺じゃない。切華だ」
「そうか‥‥。あれはお前じゃないのか」
 勇の顔に血の色が戻る。しかし、すぐに泣きだしそうな顔になる。
「頼む! 紅矢! 助けてくれ。こんな事になるなんて思っていなかったんだ!」
 勇は大粒の涙を流して、紅矢の腕にしがみついた。しかし、その手を紅矢は乱暴に振り払う。
「切華のやり方には反対だが、お前達が憎いという思いは俺も変わらない」
「すまなかった。本当にすまなかった。我々はここまでなるとは想像できなかったんだ。我々はただ、人間の新しい可能性を思って‥‥」
「お前がそう言っても、現実は何も変わらない。切華がお前を狙っている事もだ」
 紅矢が言うと、勇は大きく項垂れた。老人が涙を零して嗚咽する光景は、あまりにも痛々しかった。
「近衛さん‥‥。この人が?」
 葉澄が紅矢の後ろから顔を覗かせる。
「神奈川勇。切華が狙っている人間の一人だ」
「‥‥」
 何をしたんですか、という質問を葉澄は呑み込んだ。訊ねても答えが返ってくるとは思えなかったし、何より今の紅矢はかなり殺気立っていて、恐くて聞けなかった。
 紅矢は勇を睨み下ろす。
「神奈川‥‥。俺もお前は死んだ方がいいと思う。でもだ。切華にこれ以上罪を重ねられるのも嫌なんだ。今からお前を別の場所に移動させる。いいな?」
 紅矢の言葉に勇の顔がパッと華やぐ。
「ああっ、構わない。構わないよ。少し火傷を負ったくらいなんだ。すぐにでも動けるよ」
「そう‥‥火傷程度で済んだんだ。残念」
 その時、後ろから声がした。紅矢が瞬時に顔を上げ、振り向く。四人も同時に窓を見た。
 そこには切華がいた。どこにも手もつけず、彼女は窓の外に立っていた。立っているのではない。宙に浮かんでいた。
「切華‥‥」
 紅矢が即座に四人をかばうように前に出る。その顔は今まで見るどの紅矢よりも険しい。それに対して、切華の方は余裕たっぷりというような顔だ。
「兄さま、お会いしたかったわ」
「切華。もうやめろ。昨日の事故で何人死んだと思ってるんだ?」
「さあ。でも何人だろうとどうでもいいわ。肝心なのは、そいつが死ぬって事なんだから」
 切華が手をかざす。すると、突然勇の体が痙攣を始めた。
「あっ‥‥あああっ!」
「しまっ!」
 紅矢が急いで勇の体につけられた管を取ろうとする。その瞬間に凄まじい閃光が部屋中を走り抜け、紅矢の体が後ろに飛び、壁に激しく背中を打ち付けられた。
「きゃっ!」
 葉澄が身を屈める。それと同時に鳴り響く小さな爆発音。葉澄がゆっくりと目を開けると、そこには体中から湯気を出して息絶えている勇がいた。両目は飛び出し、舌はだらしなく出ている。パジャマも所々焦げていて、それは一言で言うならば、見事に焼かれていた。それを見て、葉澄は体を震わせて後退りした。足がろくに動かなかった。
「切華‥‥」
 紅矢が起き上がり、凄まじい形相で切華を睨み付ける。それでも、切華の表情は変わらない。
「まず一人‥‥」
「切華ぁ!」
 紅矢が走りだす。その手には、あの剣があった。その剣を前に突き出す。
 刹那、凄まじい爆音。それは感電すると聞こえる、あの何かが炸裂する音だった。紅矢の剣を、切華は素手で受けとめていた。その手には青白い輝きがあった。
「くっ!」
「兄さま‥‥。お願いだから、私に剣を向けないでよ」
 切華が声を張り上げた。手の中の光が一気に広がり、窓ガラスが砕け、紅矢の体が再び部屋の壁に体を打ち付けられた。紅矢は力無くその場に倒れる。
「近衛さん!」
 葉澄が紅矢に駆け寄る。体に触れようとするが、その瞬間手が止まった。紅矢の体は異様に熱かった。それは人間の体が発する熱のレベルではなかった。
 駆け寄る葉澄を見て、切華の様子が変わる。予想外、そう言いたげな顔だった。
「あなた、昨日の‥‥。何であなたがここにいるの?」
 切華がゆっくりと室内に入ってくる。手には青い光があり、体中から青の線、電気の光が漏れていた。髪の毛は宙で踊っている。晃太も麗も明も、ただただ恐怖に身を震わせ、部屋の隅に体を寄せている。切華は三人を無視して、葉澄の傍に来る。
「あなた‥‥誰よ?」
 切華が冷たい口調で訊ねる。葉澄の体が恐怖で凍り付く。手足の震えが止まらない。だが、葉澄はキッと口を結び、切華を睨み返していた。
「誰でもいいじゃない! それより自分の兄さんに怪我させて、何平気な顔してるの!」
 その言葉に、切華の表情が固まる。体から漏れていた電撃がおさまる。一瞬、静寂が室内を包んだ。
 葉澄の額に脂汗が浮かぶ。足も体も目さえも動かなかったが、咄嗟にそれだけは言えた。何故そんな事を言ったのか、自分でも分からなかった。まるで口が勝手に喋ったような感覚だった。紅矢がそんな葉澄の横顔をじっと見つめていた。
 切華はしばらく黙っていたが、やがてその顔がゆっくりと恐ろしい表情に変わっていく。震える拳が強く握られている。
「‥‥好きで」
 そして、歯を剥き出しにして叫ぶ。それは悪鬼にも勝る顔だった。
「好きで手出すわけないじゃないのぉ!」
 切華の右手が輝きだす。葉澄の表情が強ばる。やられる。そう思った。
 その瞬間、明が竹刀片手に切華に向かっていった。
「やあああ!」
 竹刀は切華の脇腹に直撃した。完全に不意をつかれた切華は数歩よろける。明は脂汗に濡れた手で竹刀を握り、再び振り上げる。が、二度目の斬撃は軽くかわされる。
「うるさいわね!」
 切華の手から青い閃光がほとばしった。明の顔が青い光に照らされる。その瞬間、灰色のコートが宙を舞った。紅矢だった。紅矢が己の身でその電撃を受けていた。コートが電撃を弾き返していた。
 目の前で炸裂する電撃を見て、明が尻餅をつく。紅矢と明との距離は僅か一メートルだった。
「くっ‥‥はああ!」
 紅矢が手を振り上げるとコートが翻り、電撃は反れて天井に当たった。蛍光灯が粉々に砕け、更に天井がガリガリと削り取られる。
 その態勢のまま紅矢は一歩前に出て、切華の真正面に立ち、青い光に満ちた拳を切華の腹に叩き込んだ。切華の体がぶれ、反動で切華の体が窓から飛び出した。
「くそっ!」
 紅矢は体中から煙を出しながらも、窓から身を乗り出し、目で切華の姿を追った。だが、紅矢が窓の手摺りに手をつけた時、既に切華の姿は無かった。
「‥‥逃げた」
 肩で息継ぎをしながら、紅矢は呟いた。あれだけの攻撃を受けたのに、見た目にはそれほど辛そうには見えなかった。
 紅矢は勇の元に駆け寄った。皮膚の至る所が焼けただれていて、とてもではないが正視できる状態ではなかった。勇がつけていたあの管。切華はあそこに電流を流し、体の内部から彼を焼き殺していた。
「‥‥ちっ!」
 紅矢は歯を食いしばり、壁を思い切り叩いた。その手から青い閃光が僅かに走った。
 明が惚けた顔で座り込んでいる。その後ろでは麗と晃太が目を見開いたまま抱き合っていた。葉澄は悔しがる紅矢をただ見つめる事しかできなかった。立ち上がろうにも、足が竦んで動かなかった。


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