エレクトリック・エチュード 第4章


「うん‥‥大丈夫だよ、家近い子だから。明日の夕方には帰ると思うから。うん、うん‥‥分かってる。じゃあ切るね」
 葉澄は携帯電話のスイッチを切った。葉澄の母親は渋々というような口調だった。仕方ない。今、この街はあの事件の事で騒然しているのだ。誰であろうとも、あういう態度にはなる。しかし、自分の娘がその事件のど真ん中にいる事など想像できないだろうな、と葉澄は他人事のように思った。
「両親は何て?」
「早く帰ってこいって。学校は私以外にも何人か休んでたみたいで、連絡は無かったみたいです」
「そうか‥‥。いいな、学校があるって」
「えっ?」
「いや、何でもない」
 紅矢は無理矢理話を断ち切った。
 紅矢は葉澄の一歩前を歩いていた。男女二人っきりの夜道。それは普通ならロマンチックなムードだったかもしれない。しかし、今はそんな余裕のある事は言っていられなかった。
「近衛さん」
「紅矢でいい。その方が気楽だ」
「でも、年上ですし」
「そうか。なら、君の呼びやすい言い方でいい」
「じゃあ、紅矢さんにします。紅矢さん、前に亡くなったって言う人、女の人ですか?」
「ああっ、そうだ。心の底から愛していた女性だった」
 振り向く事無く歩く紅矢。その表情は葉澄からは見えない。しかし、いい顔はしていないないだろう、と葉澄は思った。
「後悔してる。一緒に生きようなどと考えなければ、あの人は死なずに済んだ」
「‥‥」
 独白する紅矢の背中に、葉澄はかける言葉が思い浮かばなかった。
 どんな女性だったのだろう。葉澄はそれが気になった。しかし、そんな事は聞けるはずもなかった。彼の心を痛めてしまいそうな気がしたからだ。
 紅矢のマンションが見えてきた。紅矢は一度辺りをグルリと見回してから、それから葉澄の手を引いてマンションの中に入った。
 部屋は今日の朝来た時と何も変わっていない。たった一日の出来事だと言うのに、まるで何ヵ月もの出来事のように感じられた。
 紅矢は部屋に入るとコートを脱いだ。そして、冷蔵庫からビールを取り出す。
「君も飲む? って未成年だっけ、君は」
「はい。ジュースとかありますか?」
「ああっ、オレンジしかないけどね」
 紅矢はオレンジジュースを葉澄に手渡した。
 煙草を吸いながらビールを飲む紅矢。その顔にはひどい徒労の様子が見て取れた。それを眺めながら、自分もひどく疲れているな、と思いながら、葉澄はオレンジジュースを口にした。
「すまない、君を巻き込んでしまって」
「いえ、いいんです。元はと言えば、自分から首を突っ込んだ事ですから」
「そう言ってくれると助かる」
 紅矢はビールを飲み干した。
 生まれて初めて男性と二人っきりでいると言うのに、葉澄はこれっぽっちも緊張していなかった。何だか、一緒にいる事がひどくいけない事のように思えた。自分のせいでこの人を疲れさせている。そう思えて、心が痛んだ。
「紅矢さん、妹さんってどんな人なんですか? こういう言い方すると失礼かもしれませんけど、私から見ると‥‥笑って人を殺せる人っているんだなって感じです」
 葉澄の言葉に、紅矢の顔が落ち込む。きつい言い方だとは思ったが、正直な気持ちでもあった。
「昔はあんなんじゃなかった。昔はもっと、普通の女の子だった。もっとも、昔からあの力はあったけどね」
「何かあったんですね。言いたくなかったら、いいですけど」
「すまない。それは言わないと決めたんだ。この事は絶対に誰にも言わない、と。でもこれだけは言える。今のあいつは、昔のあいつじゃない‥‥」
 明後日の方向を見ながら、紅矢ははっきりと言った。
「好きなんですね、妹さんの事」
「‥‥俺に残された肉親はあいつだけだ。この力を持つが故に味わった苦しみ。それを理解してくれるのもあいつだけ。できる事なら、また昔のように二人で暮らしたい‥‥」
 紅矢は項垂れた。
 昔、どんな事があったのか、それは葉澄には分からない。きっと、想像もできないような事を経験してきたのだろう。葉澄はこの人を励ましてやりたい気持ちになる。でも、何と声をかけてあげればいいのか分からなかった。
「でも‥‥君達が初めてだったよ」
「えっ?」
 顔を上げる紅矢。その顔に小さな光明が見て取れた。
「あの力を見た後でも、俺に声をかけてきてくれたのは君達が初めてだった。そして、俺の手を握ってくれたのは、君が初めてだった。だからつい、話してしまった。本当にすまない」
「‥‥」
 初めて、この人の心の気持ちを聞いたような気がした。そして、初めてこの人と一緒にいて良かったと思った。自分は決して、この人に苦痛だけを与えているのではない。そう思えて、嬉しかった。
「いいって言ったじゃないですか。紅矢さんがそんなに落ち込む事無いです」
「‥‥ありがとう」
 紅矢ははにかんだ笑顔を見せた。それはどこでもいそうな、男の顔だった。
「あっちのドア開けると風呂があるからさ、入って寝るといい」
「はい。お言葉に甘えさせてもらいます」
 普通の会話。男と女のする何気ない普通の会話。それが葉澄には嬉しかった。


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