「刺青時鳥小唄」 (しせいときつのとりこうた)  その@


 目の前に桜の木にとまった一匹の鴬(うぐいす)がいる。赤と黒の羽を持ち、尾の長いその鴬は、僕が腰に力を入れるとぐにゃりと形を歪めた。くちばしが本来なら曲がらない方向に曲がり、ひどく不恰好になる。それもそうだ。この鴬は生きていない。この鴬は風羽(かざは)の背中に彫られた刺青なのだから。
「あっ‥‥んんっ」         
 短い髪の毛を振り乱し、風羽が僕の上で淫らに踊っている。背中や肩に無数の汗を浮かばせ、上下に動く。接合部分から漏れ出る愛液は僕の腰を伝って湿った布団に染みを作っている。
「気持ち‥‥ええんやろ?」
 繋がったまま、風羽は体の向きを変え、僕と顔を見合わせ、妖艶な笑みを浮かべる。まだ白粉(おしろい)が完全に拭き取られていなかったらしく、頬を流れる汗は僅かに白く濁っている。僕は小さく頷くと風羽の首を掴み、無理矢理に口付けをする。唾の他に口紅の味がする。僕はそれら全てを吸い取るかのように、風羽の唇を貪る。
 膨らんだ乳首を左手で弄び、右手で風羽の滑らかな腰を掴み乱暴に振る。衝撃が走り抜けていく度、風羽の口から声が漏れる。
「んんっ‥‥ああっ、あはぁ」
 夕暮で朱色に染まった瞳は、淫靡に潤んで僕を見つめている。いやらしく突き出た舌に自分の舌を絡め、音を立てて吸い合う。窓から開いているから、もしかしたら誰かこの音を聞いているかもしれない。でも、構わない。紗院篭一の女を抱いているのだから、これはもはや光栄な事だ。
「恭介はん‥‥他の事は考えんで。今は、あたしの事だけ‥‥ああっ」
 ほんの少し余所見をしていたのを風羽に見られ、風羽はより一層甘い声をあげて僕の耳たぶを噛む。頭の奥が麻痺するような鄙猥な吐息を耳に感じ、僕のものはより大きくなる。
「うふふっ、また大きくなったわぁ。恭介はん、そないにあたしの事、好きなん?」
「ああっ、一生抱いていたい」
 そう言うと、風羽は僕の首に腕を絡ませて嬉しそうに微笑む。
「もっと‥‥気持ちようさせたるわ。ああっ」
 風羽は目を閉じて、自分から激しく腰を振りだす。二つの乳房が揺れて、短めの髪の毛が上下になびく。腰からはいやらしい音が響き、飛沫が弾け飛ぶ。
「んんっ、ああん」
 腰の動きに合わせて、風羽の声が次第に切なげなものになっていく。僕はそれがもっと聞きたくて自らも腰を振りだす。
「ああっ‥‥中には出さんでね。お客の子作ったら、あたし紗院篭から追い出されてしまうから」
「分かってるよ」
 腰の動きを止めて、風羽を寝かす形にする。くびれた腰、細い首、鎖骨の浮き出た肩、全てから汗が吹き出し、夕暮の陽を浴びて風羽の美しさを際立たせている。初めて紗院篭で会った時はこんな事になるなんて思ってもいなかったが、今目の前で僕の愛撫に身をよじらせている風羽は、紛れもなく本物だ。
 いとおしさと彼女を蹂躙したい気持ちが重なり合い、激しく腰を動かす。細い指を噛みながら、風羽の綺麗な瞳がこちらを見つめている。
「んんっ、ああん‥‥。もうちょっとや、もう‥‥ちょっとで‥ああっ」
 風羽の腰が痙攣し始める。僕は最後と言わんばかりに、腰に力を込める。射精感がまき起こってくる。
「ああっ‥‥もう‥だめや」
 その瞬間、風羽の背中が弓なりに反る。僕も彼女の中からものを抜き取る。先から白濁の液体が吹き出る。その液体は激しく上下している風羽のお腹に落ちた。それでも、風羽は天井を見つめながら荒く息継ぎをしていた。


 六畳一間の小さな部屋の中で、僕と風羽は小さな布団にくるまって行為の余韻に浸っている。外はさっきまでは夕暮だったのに、今はもうすっかり夜だった。夜空に無数の星が瞬いている。
 二人で同じ銘柄の煙草をふかす。狭い室内に二本の煙が漂った。
「恭介(きょうすけ)はん。あたしみたいな女、嫌いかと思うてたわ」
「何で?」
「何と言っても天下の帝都大の学生やし。あたしみたいな自分の体売って金もろうてる女なんか、全然興味無いと思うてた」
「書生だからこそ、世間の事は知ってるつもりだよ。僕は、風羽みたいな女を差別なんてしないよ」
「ふふっ、嬉しいわ、そういう事言われると」
 そう言うと、風羽は頬を赤く染めて僕の頬に口付けをした。
 初めて会った時は、こんなに色々な顔をする女だとは思っていなかった。いつも人を見下すような笑みばかり浮かべていると思っていた。でも、こうして一つ屋根の下で暮らして分かる事もある。風羽は、そういう事に関しては興味の尽きない女だった。


 僕が東京へ来たのは今から一年前だった。それまでは東北地方の片田舎で暮らしていた。何故だか知らないが、僕は頭が良かった。学校の成績は常に上位だったので、先生が東京の大学に行く事を勧めてくれた。
 最初僕はあまり行く気がしなかった。東京は日露戦争で勝利して浮き足だっていると聞いていた。学生は大学などには行かず、皆軍需産業の歯車になるものだと考えていた。しかし、先生はお前は頭がいいからそんな事はしなくていい、と言った。そう言われ、僕は東京に行く事を決意した。
 東京は僕のいた片田舎とは別世界だった。服装もモダンな感じのものが増えていて、僕のように着物を着ている者の方が少ないくらいだった。夜になると灯る電灯や、ガソリンで走る車、煉瓦や鉄で出来た家々‥‥。全てが新鮮に見え、それだけでも東京に来た事を嬉しく思った。
 駅から歩いて二十分くらいの、まだまだ都会とは呼べない清閑な住宅街の家を借りた。六畳一間の小さな部屋だったが、一人で暮らすのだからこれくらいでいいだろう、と深く考えもせずに暮らし始めた。
 大学に通っている奴らは、戦争の事なんてこれっぽっちも考えていなかった。今日は何を食べようとか、今日はどんな女と遊ぼうとか、そんな事ばかり語り合っていた。そんな時、友人の一人に連れられて遊廓へ遊びに行った。
 紗院篭(しゃいんろう)、という大通りから少しそれた所にある、ここらへんでは有名な遊廓だった。一見すると小学校のようにも見えるその館は沢山の窓がついていて、そこから常に何人かの若い女達が顔を覗かせていた。僕が彼女達を見上げると、彼女は愛想の良い笑顔で手を振ってくれた。
 女は極上、その上金さえ払えばどこまでもやってくれるんだ、と僕を誘った友人は言っていた。
 そこで、僕は風羽と出会った。風羽は煙草をふかしながら、男の待合室に腰掛けていた。誰かを待っているようだったが、その誰からしい人物の姿は見えなかった。風羽は僕を見るとにっこりと笑って小さくお辞儀をした。
 風羽は紗院篭で働く女だった。年は僕よりも二つか三つ程上の感じがしたが、実際の所分からない。本当の名前も知らない。「風羽」という名前は源氏名だった。
 風羽はとても美しい女だった。僅かに白粉の塗られた艶のある顔、くびれた腰、漆黒の短めの髪の毛。耳たぶに付けられた綺麗な西洋の装飾物(イヤリング)。猫の瞳の描かれた、紺と焦茶の斑模様の着物を纏った彼女を初めてそこで見た時は、この世にはこんなに美しい女がいたのか、と思った程だった。
 それを証明するかのように、風羽はいつも他の男に呼ばれていた。遊廓の女は高い金を払ってくれる男の所へ行く。学生だった僕は大した金も無く、また紗院篭は軍人や政治家なども通っているらしいので、僕よりも金のある男はいくらでもいた。
 それまで経験が無かったわけではなかった。田舎にいた頃も、相思相愛の女がいた。彼女とは東京に来る際に正式に別れを告げた。彼女は泣いていたが、僕はあまり悲しくはなかった。今考えてみれば、どうして当時彼女を好きだったか覚えていない。
 だから、見知らぬ女と寝ようと罪悪感など無かった。それに、東京ではこういう事はよくある、と大学の友人も言っていた。遊女の事なんか一日寝れば忘れるものだ。その友人の口癖はこれで、僕もそうだと頷いていた。
 でも、それでも、僕は風羽の事が頭から離れなかった。他の女と逢瀬を重ねても、考えるのは風羽の事ばかりだった。
 ある日、僕は大学の授業を休んで、水曜日の午前中に紗院篭に向かった。平日の午前ならば、軍人や政治家は来ない。彼女がいるのかも分からなかったが、朝から晩までやっている、というのがその遊廓の売り文句だったので、もしかしたら、と思って僕は向かった。
「あんさん、暇人なんやなぁ」
 最初に風羽がかけた台詞はこれだった。京都や大阪などの関西の方言が交じっていて、少し東京弁に慣れようとしている感じが伺えた。
 風羽は各部屋へと続く廊下に置かれている長椅子に腰掛けて、また煙草をふかしていた。以前見た猫目の描かれた着物は着てなく、どこにでも売っていそうな黒い着物を着ていた。足を組んでいて、着物の裾から出た白い足がとてつもなく美しかった。白粉もほとんど塗られてなく、僅かにつけられた深紅の口紅がやけに目立った。
 その時の風羽は子供のように目を大きく見開き、興味津々と言った感じだった。
「そんなにあたしに会いたかったんか?」
「ええっ」
 そう言うと、風羽はふふふっと含み笑いをした。
「そうやってはっきり言う人、あたし好きやわ。あたしの相手って殆ど軍人とか、政治やってる人ばっかりやから、みんなどっかスレてるんやわ。何かこう、俺は軍人なんだぞって、偉ぶっとるのよ。それに比べて、あんさんは素直でええなぁ。そのくせ、書生なんて珍しい。将来はお偉いさんになるん?」
「いえ‥‥。別にそんな大それた事は」
「でも、あんさんの行ってる大学の学生さんは、みんな政治家や空軍の上官になったりしとるで」
「僕は、そんな事考えてません」
「ふうん。そうなんや」
 そこまで言うと、風羽は煙草をくわえて、僕を隣に座るように促した。僕は従われるままに、風羽の隣に座った。煙草を勧められ、一本口にくわえた。風羽が燐寸(マッチ)を擦ってくれた。
「何で、あたしに会いに来たん?」
 紫煙の向こうで、風羽が興味深げに僕を見つめている。
「何でって‥‥。あなたの事が忘れられなくて」
「‥‥あたし、まだ一度もあんさんと寝た事、無いで」
「そんなんじゃないんだ。ただ、会いたいから来ただけで、別に寝たとかそういう事はどうでもいいんです」
「‥‥ふうん」
 初対面だというのに、風羽は慣れた口調で聞いてくる。その態度や仕草がえらく大人っぽく、僕は高鳴る心臓を必死に抑えながら言葉を繋いだ。
「そういう人とはあんまし会わんなぁ。あたしの相手って、みんなあたしの体目的やからな。まっ、そういう商売してるんやし、仕方ないとは思うとるけど」
「田舎の出、ですから。純なんですよ」
「自分で言うな、自分で」
 苦し紛れに言った冗談で、風羽はその顔に似合わない可愛らしい笑顔で笑ってくれた。
「田舎ってどこなん?」
「東北です。新潟なんです」
「あたしとは逆やな。あたしは関西から来てるんや。まあ、言葉遣いで分かるか。あんさんの言葉使いは東京弁やな」
「本が好きなんですよ。夏目漱石とか森鴎外とか。だから、自然とこっちの言葉を知って」
「やっぱり大学通う人は違うわな。あたしなんか、ロクに本なんて読んだ事無いわ」
「何か貸しましょうか? 森鴎外の『舞姫』とか面白いですよ」
「ええわ、ええわ。文字なんかずっと見てたら、馬鹿になるわ。って、あんさんに言うたらいかんな、こんな台詞」
「いいですよ、別に」
 饒舌になった風羽は、ケラケラと笑う。彼女の後ろを数人の別の遊女達が通り過ぎていく。皆、驚いた様子で僕と風羽を見つめていた。
 その日から風羽は、僕の指名を受けるとどんなに偉い人の指名も断って、僕についてきてくれるようになった。細かい理由はよく分からない。ただ、風羽が僕に興味を持ってくれたのだろう。でも、それでもよかった。
 風羽はこちらが驚く程あっけらかんとした性格の女だった。誰にでも明るげに接し、決して哀しげな表情など見せない。その笑顔も、遊女独特の作り笑顔などではなく、今までの人生の中で哀しい出来事など何も無かったかのような、純粋な笑顔だった。僕はそんな彼女に急速に惹かれていった。出会った時のような、幻のような感情ではなく、手応えのある感情として。


 初めて彼女を抱いた時、僕は彼女の体に彫られた刺青に驚いた。生まれて初めて、刺青というものを見た。最初見た時は、正直異形に見えたが、天真爛漫な雰囲気の風羽には似合っている、と慣れていくうちに思うようになった。
「鴬ってな、時鳥って言われてたんやで。恭介はん、知っとったか?」
「確か、昔の本や歌集なんかに、時鳥ってあったな」
「万葉集や。柿本人麿や大伴家持とかの歌が載っとるやつや。そこに、鴬の事を時鳥(ときつのとり)って書いてあるんや。春や秋を連想させる鳥やったから、時鳥って呼ばれてたんやて。まあ、今は今は春告げ鳥なんて呼ばれてるけど、あたしは時鳥の方が好きやな」
「へえ、よく知ってるね」
「一生もんの刺青やで。色々調べてたんや。ちなみに雌の鴬や。ほら、尻尾が少し短いやろ? 長いのが雄なんや。あたし女やし、やっぱし彫るなら雌がええなって思うてたんよ。それに、時の鳥って何か格好ええやろ? なんか、あたしっぽいなって思うたんや」
 風羽はそう言って、自慢げに背中を見せてくれる。雪州の水墨画に色がついたようその鴬は、風羽が腕を動かす度に、その形を歪めた。


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