「なあ、恭介はん」
「んっ?」
朝を迎え、紗院篭に戻る風羽はそそくさと衣服を着ると玄関に立ち、不意に僕の名前を呼んだ。
「恭介はんも、したらどうや?」
「何を?」
僕がそう訊ねると、風羽は少し俯きがちになり、含み笑いをする。その笑みは見ているこちらがぞくりとするような、不気味でありながら、とてつもなく妖艶な笑みだった。
「刺青や。あたしと出会えた事を一生刻み込む為に。心みたいに目に見えないものなんかやない。あたしと同じように背中に大きな鴬彫って、刻むんや。今を、そして、あたしを」
「‥‥」
「恭介はんは嬉しくないん? あたしと会えて。もし、これが人生の中で最高の出会いと思ったなら彫ってほしいな。ふふっ。考えておいてや。ほな、行ってくるわ」
僕の返答を待たず、風羽は部屋から出ていった。部屋に一人残された僕は、口を開けたまま、しばらく風羽の出ていった玄関を眺めていた。
大学の授業中も、僕は風羽の言った事を何度も心の中で反芻させていた。
あたしと出会えた事を一生刻み込む為に。
もし、これが人生の中で最高の出会いと思ったなら彫ってほしいな。
「‥‥」
突然何を言い出すんだ。それが最初に思った事だった。出会ってまだ一週間足らずしか経っていない。確かにその間の関係はとても濃密で、意味のある一週間だったとは思う。でも、たかが一週間。たったそれだけの時間を過ごした男に、出会えた事を一生刻み込む為に、などと言う女は初めてだった。
しかし、風羽ならありえる事だ。現にそう言ってのけた。言葉は悪いが、風羽は今が楽しければいい。後の事など何も考えていなそうな、そんな雰囲気を漂わせている。きっと、あの刺青がそう感じさせているのだろう。自由奔放で、どこにでも翔んでいってしまいそうな女。手が届かないようで、抱けば極楽浄土に昇れる快楽を味あわせてくれる女。
そんな女の背中で生きる、一匹のメスの鴬。美しく、淫らに啼き響き、悦楽という名の春を呼び寄せる一匹の鴬。
時鳥。確かに彼女らしい刺青だ。僕には、似合わない。僕には鴬を刻む、風羽という女を刻み込む資格など無い。僕はただ、風羽という鴬が偶然にとまった、何気ない木の一本。時が経てば、その鴬は何の前触れも無くどこかに翔んでいってしまうだろう。そして、たった一本の木など忘れてしまうだろう。
それは一刻の享楽。一刻の幸福。ほんの僅かな時間の触合いでしかない。そんな僕が、彼女と同じ鴬など彫れるはずがない。
茜色に染まった家屋を見上げながら、ゆっくりとした足取りで家路に着く。空の彼方は僅かに碧くなっていて、一番星と月だけが静かに瞬いている。
家に帰っても、誰もいない。風羽は朝から晩まで働いている。普通の仕事ではないし、風羽は紗院篭にいる遊女の中でも飛び抜けて人気の高い女だ。帰りはいつも僕の方が早い。だから、いつも僕が彼女を迎えに行く事になっている。
「‥‥」
今朝から出しっぱなしにされた布団の上に腰掛け、テーブルの上に置かれている煙草に手をのばす。火をつけ、無言で煙を吐き出す。煙草の匂いの他に、布団から風羽の使っている西洋の香水の香りが漂ってくる。
「‥‥ふう」
半分程吸った煙草を灰皿にもみ消し、おもむろに立ち上がる。そして、台所近くに設置されている鏡の前に立つ。上半身の服を脱ぎ、まじまじと自分の体を見つめる。
太っていない、どちらかと言えば細身の体。もう何度も見たが、こうやって真正面から見つめると、何の装飾もされていない事に気づく。
それに比べると、風羽の体は美しく飾られていると言える。整った顔立ち、なだらかな肩、程よく膨らんだ乳房、細くくびれた腰、胸と同様に張りのある尻、それら肉体の曲線は勿論の事、やはり背中の鴬が印象的だ。
僕の体に、鴬はとまってくれるだろうか? 風羽という蠱惑的な鴬は、僕という何の魅力も無い鴬に惚れてくれるだろうか?
出来るならとまってほしい。いや、隣にいてほしい。僕という木に一刻だけ羽を休める鴬ではなく、鴬になった僕と妖艶なる共奏をしてほしい。いつまでも聞き飽きない、円舞を舞ってほしい。
「‥‥」
そんな事を考えている内に、陽は落ちていた。僕は再び上着を着て、靴を履いて、風羽を迎えに行く為に部屋から出た。
夜も丑三時を過ぎ、僕と風羽は二人並んで、他には誰も通っていない狭い道をゆっくりとした足取りで歩いていた。風羽の履いている赤緒の下駄が、道端に転がる砂利を蹴ってからんころんと鳴る。
「背中の刺青はいつ、入れたんだ?」
僕の言葉に、風羽は嬉しそうな顔を向ける。白粉も口紅も取れているが、その顔はとても綺麗だ。
「これな、あたしが初めて紗院篭に行った時に彫ってもらったんや。両親が子供の頃に死んで、体一つでこっちに来て、その日のうちに紗院篭を訊ねて、すぐに遊女として働いてもいいって言われた時、嬉しくて紗院篭の先輩殿のツテで彫ってもらったん」
「後悔とか、そうのは全然無かった?」
「無かった。これっぽっちも無かった。逆に、何か凄く嬉しかったわ。新しい人生が始まるやって充実感と、あと、私の体に永遠に生き続けるこいつが、彫ってもらってからいとおしくてかなわんのや。まあ、恭介はんにはまだその気持ちは分からんやろうな」
そう言うと、風羽は急に立ち止まり、僕の手を取って背中をさすらせる。当然、手から伝わる感触は着物のざらざらとしたものだけだったが、その向こうに色鮮やかな鴬がいると思うと、その感触も僅かに暖かさを感じた。着物の感触が、まるで鴬の羽を撫でているように感じられる。
「‥‥色っぽいやろ。こうやって、背中さすられてる時のあたしって。疼くんや、背中の鴬がな。男と寝る度、背中の鴬の啼くんや」
「何て?」
僕が聞くと、風羽は細く白い指で僕の手を握る。そして、桃色の舌を突き出して、ぺろりと僕の指を舐め、笑う。小さく、まるで鴬が啼くかのように囁く。細い髪の毛がふわりと浮き上がる。
「お前は幸せ者だって」
「‥‥」
「‥‥幸せ者やな、あたしは」
風羽が口付けをする。今まで何人の男がこの唇の味を知ったかしれない。僕が一体何本目の小枝なのかは分からない。でも、そんな事はどうでもよかった。艶かしい視線で僕を見つめ、淫らに舌を吸う彼女。そして、お前は幸せ者だと言った風羽の体全体から漂う言い知れぬ鄙猥さに、僕は完全に呑み込まれていた。
辺りには誰もいない。街灯も無い。僕は風羽を道と家とを隔てている垣根に追いやると、乱暴に着物の上半身を脱がせ、剥出しにされた乳房に吸い付いた。嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔をかすめ、彼女を際限無く犯したくなる衝動に駆られる。
「んんっ‥‥可愛いわ、恭介はん」
僕の頭に両手を添え、風羽は蚊の鳴くような声で囁く。僕は夢中で風羽の乳房を揉みしだき、乳首を舌で転がす。乳首は転がす度に堅くなり、大きくなっていく。
「あはぁ、こないな場所でも乱れてしまうやな、あたしって」
空を見上げ、恍惚とした表情で風羽は笑う。僕はそれを無視して乳房を責め、着物の裾から手を侵入させて、風羽の太股の内側に手をやる。
「っ! んんっ、ああ」
そこは既に濡れていて、僕の手は簡単に膣内に入り込んだ。内側の壁を擦るように指を動かし、刺激を与えていく。風羽の体はその刺激毎にびくんびくんと反応し、愛液は太股を伝って地面に落ちた。
「ああ‥‥。恭介はん、やっぱり日の最後はあんさんに抱かれたいわ。あんさん程、あたしを微睡ませてくれる人はおらん。あっ‥‥ああっ、早くきて」
僕は風羽の言葉通り、既に大きくなった自分を取り出し、何の余興も無くいきなり風羽の中に突っ込んだ。
「んんっ! ああっ、ええわ」
僕の背中に爪を立てながら、風羽は懸命に声を殺そうとする。しかし、それでも声は口から漏れて止まらなかった。
僕は目茶苦茶に腰を振る。粘着質な音が断続的に続き、風羽は髪を振り乱して喘ぎ、僕はそんな彼女の口を塞ぎながらも、腰の動きをやめない。きっと、今なら後ろを誰かが通っても気づかないだろう。
「あっ、あっ、あっ‥‥んんんっ」
口を塞いでも漏れ出る風羽の声が、段々と嬌声にも似た声に変わっていく。僕も背中が痺れるような感覚が走り始め、事の終わりを予兆させる。僕は彼女を壊さんばかりのいきおいで突き上げる。
もう、時間やそういった外界のものなど何も感じない。ただ、目の前で僕に犯され喜んでいる風羽と、そしてそんな風羽に何もかも呑み込まれていくような、そんな錯覚に陥っている僕という存在だけが理解出来た。
「あああっ!」
彼女の膣内に全てを吐き出す。風羽の体が大きく反れて、涙を流して小さく絶叫する。
白く濁った液体は、僕のものを伝って、彼女の太股を濡らし、地面に落ちて風羽の愛液と一つになっていた。
僕が刺青を彫る事を決意したのは、それからすぐの事だった。風羽に案内され、街の外れにある寂れた小屋に連れていかれた。
「‥‥こいつか?」
小屋から現れたのは、六十は過ぎてると思われる老人だった。腰は曲がり、髪の毛も落ち武者のように乱暴にのび、顔は皺だらけだった。しかし、その目は虎のように光り輝いていた。
「そや。あたしと同じ、でも雄の鴬を背中に」
風羽は僕の肩を軽く叩く。老人は僕の方を見ると、舐め回すような視線で僕を見た。僕は何だか少し恐くなって足が竦んでしまう。
「時鳥か‥‥。お前さんとこの男の間にどんな事があったかは知らないが、金さえくれればやる事はやるよ」
「分かってるわ、そんな事」
そう言うと、風羽は着物の裾から巾着袋を取り出し、それを老人に渡した。男の手に巾着袋が落ちた時、がちゃがちゃと金の重なり合う音が聞こえた。男は巾着袋の中身を確かめる事も無く、すぐにぼろぼろの服の中にしまうと、僕の手を取った。
「相当痛いからな。それは覚悟してもらう。本当は西洋から来た麻薬というのを使うと楽なんだが、今は切らしててな。我慢してくれ」
「‥‥ああっ」
老人に言われた事は決意した時から覚悟していた。僕は老人の脅しともとれる発言に強く首肯いた。老人は少し驚いた顔をするが、すぐに元の無愛想な顔に戻ると、僕を小屋の中に引きずり込んだ。
小屋の中は不思議な匂いに満ちていた。障子には穴が空き、壁にも無数の朽ち跡があるのに、その匂いは部屋に充満していた。部屋の真ん中に布団が置かれている。その隣に、絵の具のような物が無数にある。絵の具と違う所と言えば、筆ではなく先に針のついた細長い物があるという点だろう。
「上半身裸になって、ここに俯せになってくれ。時間は大体半刻(六時間)。その間は身動き一つ許されない。出来上がっても、痛くてしばらくは動けないからな。あと、いくら痛くても決して暴れるなよ。暴れたら、いつまで経っても出来ないからな」
「‥‥ああっ」
老人に言われた通り、僕は上半身だけ裸になって布団の上に俯せになった。老人の隣で
風羽があぐらをかいて座っている。何が楽しいのか、終始笑顔だった。
「もうすぐやで。もうすぐ、恭介はんもあたしと同じ鴬を飼う事になるんや。まるでつがいみたいやな」
「‥‥そうだな」
「最初は痛くて仕方ないけど、しばらくすれば痛くなくなる。そうしたら、恭介はんの鴬が、正真正銘、恭介はんの鴬になるんや」
「いつまでも彫り物に喋ってるんじゃねえよ、風羽。ほら、前向けや。やるぞ」
老人が風羽の言葉を無理矢理遮断してしまう。風羽は嫌な顔をして老人を見つめるが、老人は相変わらずの顔だった。
「‥‥」
僕が刺青を入れる事を決意した理由。それはあの日、あの時の風羽の姿だった。外でも淫らの華を咲かせる風羽。そして、その華に抵抗出来なかった僕自身。あの時、僕は風羽からは離れられないと確信した。風羽の仕草、言葉、何もかもが体の裏側に張りついて取れないような気がする。
僕が弱いのか、それとも風羽が強いのか。それは分からない。ただ、あの時、いや、出会った瞬間から、僕は風羽から逃れる事など出来なかった、という事ははっきりと分かる。枝であった事は分かる。でも。でも、もしも鴬を彫れば、僕は枝ではなく鴬になれるのではないだろうか? なりたい。そして、このままずっと風羽と共にいたい。つがいの鴬になりたい。
僕が鴬を彫るのは風羽との出会いという思い出を永遠に刻む為ではない。風羽と永遠に生きる為に、その証と覚悟の為に彫るのだ。
針が、僕の背中を突き刺した。痛みが、心地好く感じられた。
「‥‥」
梅の花が咲き誇っている。梅の清々しい薫りが鼻をかすめていく。僕は上を見上げ、どこまで続く青い空を見上げる。澄んだ、いい色をしている。
下を見ると、風羽がいる。白い着物を着て、森鴎外の『舞姫』を読んでいる。僕の視線に気づいたのだろう。風羽はにっこりと微笑んで、左腕を宙にかざす。僕は翼を広げて羽撃き、風羽の腕にとまる。
「このエリスっちゅう女は馬鹿やな。というか、この林太郎っちゅう男が馬鹿なんやな。妊娠までさせておいて、そのまま日本に帰るなんて、責任感の欠片も無い男や。それに比べて、恭介はんはええ男や。いつまでもあたしに従順でいてくれる。‥‥いや、ええ男やった、と言うべきかな? ふふっ」
風羽は明朗に笑い、右手で煙草を取った。火をつけ、僕に吹き付けてくれる。僕はむせ返る事も無く、一声啼いて喜びを伝える。
「ふふっ。昔、恭介はんに言った事、取り消すわ。文字ばかり読んでると馬鹿になるって台詞。面白いなぁ、小説って。他にも面白い本あったら、教えてほしいわ。ああっ、源氏物語は読んだで。光源氏って男がただやりまくるだけの、ほんにつまらん本やったわ。もっとええ本、教えてな」
「‥‥」
僕は風羽に伝えようとする。もっともっと、面白い本がある事を。でも、それは言葉になってはくれない。それはそうだ。僕は既に人間の言葉を失ってしまったのだから。でも、何とかして伝えようと濁った緑色の羽や尾を動かす。
「そんなに慌てんでもええ。時間はまだまだたっぷりあるんや。ゆっくりと教えてくれればええ」
「‥‥」
「あたしはどこにも行かへん。ずっと、恭介はんの隣にいる。何の心配もせんでええ。紗院篭の人達や、お客さんもみな喜んどるんやで。恭介はんみたいな、綺麗な“鴬”はそうそういないって。あたし、とっても自慢げな気持ちや」
風羽は初めて会った時から何も変わらない、美しい指で僕の頭を撫でてくれる。僕はそれが心地好くて、瞳を閉じる。
「さてと、もうそろそろ時間や。恭介はんも一緒に行こう。それで、またあたしが天国に行く瞬間、綺麗に啼いてや。あたし、恭介はんの声がないと天国に行けへんのや」
そう言って、風羽はゆっくりと立ち上がり、白い着物を脱いで、いつもの猫の目の縫われた着物に着替える。僕はそんな風羽の肩にとまる。
鴬になった僕は、ずっとこれからもずっと、風羽と一緒だ。僕は、それが何よりも嬉しかった。鴬になっても残った、背中の刺青。鴬に彫られた鴬の刺青。
刺青の時鳥が小唄を歌う。喜びに満ちた、啼き声で。そう。それは僕の声だ。
終わり
あとがき
私の人生に決定的な影響を与えた作家が谷崎潤一郎さんです。あのSM的で耽美的な世界は私の「書きたい意欲」をおおいにそそられました。
で、それを真似て書いた作品がこれです。作品的には「麒麟」や「卍」に似ていると思っています。まぁ、まだまだ修行が足りないので、追いつけていませんけどね。追いついたら、今頃プロになってただろうし。
個人的にはタイトル、内容、結末、共に大好きです(自分で言うもんかなぁ)。